W杯のサポーター

サッカーの世界的な大会など、大きな試合があると、その結果を伝えるテレビ番組は毎回、サッカーの試合内容よりサポーターの大騒ぎの方が尺が長い。母校だとか生まれ故郷で応援する人々、そして大騒ぎする渋谷駅前。
毎度社会問題となり、まったくDJでもないのにDJポリスと呼ばれる警察官が脚光を浴び、あそこにいけばテレビに映るかもしれないと勘違いする若者たちであふれる。

そんなところでの収録って誰が観たいのだろう。得点が入るシーンより、得点して大騒ぎしている人たちの映像の方が確実に長時間見せられるのが現状だ。有識者による各選手のコンディション状態チェック、得点場面や失点場面の解説や他の手段についてなど、取り上げるべき興味深い内容はいくらでもある。しかし、放映の大半は大喜びして、はんばねえとか叫んでる人たちばかり。サッカー好き一家の朝からを追っかけたりしてる番組もあって少々呆れた。

理由は分からないでもない。きっと放映権料がバカみたいに高いに違いない。
なので、リアルなシーンをできるだけ使わずに臨場感や興奮を伝えようとする各社が、同じような展開になる。

しかも大半はにわかサッカーファンで、ものまねされる本田とCMによく出ている香川ぐらいしかおそらく知らない。大迫や乾が出てきても、それが本田や香川以上に海外で活躍し評価されている選手であることを認識していないがゆえに、テレビのスポーツコーナーで突然取り上げられる。無料、もしくは価格の安いコンテンツをあそこまで準備しているというのは、たいしたもの、ではあるが。

ところで、日本対ポーランドでの日本の戦い方について物議をかもしている。
ちなみに監督の采配というかあの決断の是非はここでは問わない。それは日本サッカー協会が選んだ監督個人の問題だ。というより、グループステージは勝敗を決める場ではない、という大前提に立つべきかなと思う。時間内に勝負が決まらなければ引き分けという終わり方なんでしょ。そして一点ずつ分け合いましょうというルール。このステージは、お互いどのようにしてポイントを獲得するかを競う場であって雌雄を決するのはトーナメントに出てから、という理解が正しいと思う。なので、ポイントを獲るための手段は、得点以外でも、がむしゃらであっていいと考えている。

世界のベストレストラン2018

世界のベストレストラン2018、なるものが発表された。
食品メーカー、特に炭酸水の会社がやってるランキングで、タイヤメーカーよりは恣意的なランクであるはずながら、最近は星の数よりもこっちに入りたいと狙う料理人も多いとか。ま、国内より世界で戦っている臨場感は確かにあるよな。
世界ベストとミシュランの関係も、ノーベル賞を取ったからあわてて文化勲章を、みたいな図式とも似ていて、結局は、いってこいの関係なのだとは思うが。

さて、今年のベスト50.。行ったことがある店は、フランス3軒、スペイン2軒、オーストリア1軒、アメリカ2軒、日本3軒の11軒だった。これが多いのか少ないのか。というか、炭酸水販促のためにやってるのだから、南米、アフリカ、北欧、ロシアと、行ったことのない国からも多数。そしてもともと英国のメーカーゆえ、個人的にはあまり関心のないイギリスの店も多かったので、まあこんなもんでしょうか。

ちなみにぼくが行った中での最上位は、8位のアルページュ。少なくとも、ぼくが訪ねた11軒でいえば、その順位には何の脈絡もセオリーも思想も哲学もない。まさにぐちゃぐちゃだ。ランクインした店は、炭酸水のメーカーにものすごい政治力があったか、単にラッキーだった、としかぼくには理解できない。
ところで、イタリアの店が1軒もないのは寂しいなあと思ってたところ、もしかしたら2018年中に一軒行けるかもしれないことが分かった。しかもどうやら一位らしい。自分らしからぬと汗顔の至り。

今日は世界禁煙デー

今日、5月31日は世界禁煙デーだそうだ。
禁煙後進国の日本は、そんな日をどう受けてめているのだろうか。
日本に禁煙が進まないのは為政者のせいだとよく言われる。

ぼくは、喫煙に否定的ではない。タバコという嗜好品にどう向き合おうと、それは個人の自由だし、美味しいと思う人もいて、リラックスや気分転換にも欠かせないとする愛煙家も受け入れる。
ただ、飲食店を禁煙にしてほしいのと、喫煙者を特別扱いにしてほしくないだけだ。

飲食店を禁煙にするのは当然である。禁煙にすると客が来なくなると反対する経営者の古すぎる考え方にはいら立ちさえ覚える。煙たいから行かない、入らないとする客がいかに多いかも考えないのだろうか。かくいうぼくも、食後にバーやスナックへはすっかりいかなくなってしまったが、その最大の理由は煙いからだ。煙が全くない場所で食事をして、その後モクモクの空間に行きたいか?

G7などと先進国の仲間にも日本は入れてもらっているが、その中で飲食店でもタバコが吸える国は日本だけである。
まあ、先進国の喫煙者は、日本は天国だと言ってたけどね。

それにもまして疑問に思うのは、喫煙者への特別扱いである。酒を飲めばテーブルチャージみたいなものを普通に取るのに、タバコを吸って灰皿チャージを取る店は皆無。灰皿の管理、吸い殻の始末、煙による空調の清掃などもすべて、吸わない人も支払っている。
もっとも典型的な例は、新幹線の中にある喫煙ルーム。この部屋に入るのがタダだと最近知ってがく然とした。ずっと有料だと勝手に思っていた。車両に喫煙ルームを作るのにはいくらの費用がかかるのだろうか。それをタバコを吸わない乗客へも按分して運賃として払わされていることに疑問を呈しないのか。

ちなみにJR東日本の新幹線には喫煙ルームがないのに東海にはあるのは、明石家さんまが新幹線に喫煙ルームがないなら、もう大阪では仕事はしないと言ったから、という説がまことしやかに流れている。
結局、明石家さんまのギャラが高騰して、在版の局では扱えなくなってしまったが・・・。

完全ワイヤレスデビュー

なにかこう、かなり便利なもの(特に電化製品など)に出会うと、なぜもう少し早く使わなかったのか激しく後悔し、今までの遅れを取り戻すように使い倒し、そして人にも勧めまくる。
一つの代表例としては、少し古い話だが電動歯ブラシがある。
今まで手で磨いていたことがバカバカしくなる。美人の歯科衛生士さんに(マスクをしているので正直のところよく分からないけど)、上手に磨けてますよと褒められる。自宅、実家、旅行用と三台をすでに完備。
ツマも、使い出したら止まらない。旅行の際には、私の分も持ってくれた?と必ず聞く。母も最初は、私らあんなんあかんわと毛嫌いしていたものの、最近ではぼくのプレゼントした携帯用の電動歯ブラシを、自宅内でも外にでも、ずっと持ち歩いている。
もうここ何年も手で磨いたことがない。つか、手で磨くよりおそらく何千倍という猛スピードで動いているわけだから、数値としても能力の差は歴然。まだ使用していない方は、早速量販店に走るべし。

そして、つい先日より、完全ワイヤレスデビューした。iphone付属のイヤホンをapple製のAirPodsに代えたのだ。
独立したイヤホン部分をそれぞれ左右の耳に差し込むだけで、ケーブル類は一切なし。
これはすごいぞ。

まず、もっと装着感がぎこちない、というか首を振ったり下を向いたらイヤホンは外れるのではないかと心配したが、すべて杞憂に終わる。時間が経つにつれ多少は緩くなるのでそれを時々補正するものの、激しく動いても脱落することはない。これはランニング等エクササイズに使われることを前提とした設計だろう。
さらに、付けたままで食事やトイレができる。
味気ない一人飯のときほど店のBGMを残念に思うことが多い。センスのない、もしくは店のスタッフだけが楽しんでるような音楽を遮断して自分の好みに持ち込め、集中力も高まる。
緊急にトイレの個室に駆け込んだとしても、全く気にせず用を足せる。
なにより、ぼくが最近心がけて実践しているウォーキングのお供にも最適。動きを邪魔することなく単調な運動や景色に飽きることなく、楽しい音の世界が繰り広げられる。

特にAmazonが提供するAudibleの導入が新たな世界を開いた。
読書を聴くというキャッチで展開するAudibleは、いわゆる本の朗読を売る。
ただ本の朗読については、ベストセラーはほとんどまだコンテンツとして存在せず、例えば夏目漱石のような近代文学はそこそこ揃っているものの、朗読で理解するには難解な文章。今なお課題である。
一方、コンテンツとして申し分ないのは、リスニング用の英語関連と落語。特に落語は、小さんや立川談志、桂歌丸らの名演が数多く揃い、昨今若手のものについてもどんどん増えている。これが月々1500円で聴き放題というのはありがたい。

ワイヤレスの感度はというと、満員電車の中では時折りブツブツ切れることがある。近くに同じようにBluetoothを使っている人がいる場合に起こるようだ。ま、満員電車にほとんど乗らないので(笑、よしとしよう。

正義とは何か

東京オリンピックのごたごたから始まって、相撲、レスリング、ボクシング、アメフトと、およそ涙と汗のスポーツの世界にふさわしくない出来事がたて続けに起こっている。組織の矛盾、閉塞感、絶対制等々、オドロな世界を庶民は連日見せつけられ、夢と希望をなくしている。

ぼく個人は全く興味がないけど、スポーツ観戦は、安価で万人が平等にストレス解消できる娯楽。その娯楽の根幹が踏みにじられ続けた。そこに見え隠れするのは、正義とは何かという金科玉条で、ヒトはその正義を振りかざすこと(振りかざすのを見ること)で、留飲を下げている。つまり、スポーツにおける試合というルールにのっとったうえで雌雄を決めるのではなく、どちらかを正義にして相手を悪者にすることで、悦に入ってるようにも見える。

その最たる具現が、記者の質問だ。
記者の質問は、自分が正義の立ち位置で、自分が正義を振りかざしている状況に酔っている。
ヘタだなあ・・・とつくづく思う。もう少し違う質問の仕方、ズルくいえば、相手から自分が欲しい答えを引き出す誘導ができないのか。司会のじいさんが、同じ質問ばかりするな、という気持ちも、ある意味わからないではない。

メディアをバックに持っているだけで自分が正義だと勘違いし、正義を振りかざせば勝てると信じているのだろうが、質問は、それでは成り立たない。Aと聞いて本音が引き出せなければBの問いを持ち出す。それでも話につかみどころがなければ、Cを使って相手を追い詰める。そんな工夫がなければ結局は単なる押し問答で、翌日の新聞見出しは各社一様に同じ文字が並ぶのだろう。

ぼくは、テレビのレギュラーで60人以上の食堂経営者から話を聞き、その後もラジオやウェブ連載で話を聞き続けている。その経験から言えることは、取材を引き受ける以上、その人は話したいことがあるのが前提だ。ただ、話をするプロではないのと、カメラ等が向けられているので、理路整然と持論を展開するのは至難の業である。質問する側は、気持ちをほぐしそこをフォローし答えを手助けするのが仕事なのだ。
正義を振りかざすのが役割ではない。というか、記者が正義を振りかざせば、悪者にされたくない相手は、頑なに押し黙るしかない。