旅行の記事 (1/2)

盛岡のこと

少なくとも、週に一度以上は文章のデッサンをしたいと思って再スタートしたものの、あっという間に数週間たってしまった。先週も先々週も週末は東京におらず、モバイル用として使っているパソコンには、ブログの設定もしていなかつた。

その間、先々週は盛岡だった。
盛岡は好きな街、なにより人がいい。
クラクションの鳴らない街と、盛岡の人は自ら言う。
ホテルのフロントに始まり、タクシーに乗っても、道を聞いても、飲食店でも・・・。
回りの他人に対する思いやりを人一倍感じる。
つまりクルマのクラクションがどんなに相手に不快なものか、という「思いやり」があるのだ。

夜の盛り場を一人で歩いてたら、酔っぱらった男女数人がいて、そのうち一人の女性が
お前なんか轢かれてしまえと、道路の真ん中に引っ張り出された。
あくまで酔ってふざけた行為であり、その道路も裏道でクルマが頻繁に走るような感じではない。
ところがたまたま、そこにタクシーが一台通りかかってしまった。
タクシーは女性の手前で止まり、女性が道路の端に移動するまでその場で静かに待っていた。
当然、クラクションは鳴らさない。
正直、信じられない光景だった。もちろんタクシーの行動が、である。

ぼくがイベントの仕事をしてきた中で、一番というぐらい大切で大好きな大手電機メーカーの元担当者と会った。
今は事情があって大会社を辞め、故郷の盛岡で暮らしている。
神戸の震災翌年、ぼくの父が他界し、多少仕事に影響するようなおヒマをいただき復帰した際、クライアントでは唯一その方だけがお香典をくださった。もう20年以上前だが、その恩義は今も忘れない。いや、一生忘れないよね。
さすが、盛岡民なんだ。

永く長くその方と話していて、いつしか震災のことになった。
岩手県は震災で多大な被害を受けたが、それは海岸沿いの町ばかり。
盛岡も激しく揺れライフラインは数日止まったそうだが、内陸部ゆえ陸前高田や大船渡のような津波の被害を受けたわけではなかった。もちろん死者や行方不明者も出なかった。ところが震災以降は違ったそうだ。
同じ県の中に、ものすごい被害を受けた町や人がいることを、盛岡市民は決して忘れなかった。

盛岡の人ってねえ、震災後、海岸の町の復興にすごく東奔西走したんだよ。それこそ命を縮めるぐらいね。ぼくの土建屋の同級生も、震災の翌日から一日も休まず働き、三年前に死んじゃったよ。次はぼくかもなあ・・・といった。

松木さん、また会いに行きます。

英語が使えるようになりたい

1990年代の始めのころ、ぼくは毎年アメリカ本土に渡り、クルマで一人旅をしていた。

何気なくアメリカ在住の友人のクルマを運転したことがキッカケで、アメリカでドライブという魅力にとりつかれ、全州をクルマで走破してみようとの計画を立てた。テキサス州のダラスからニューメキシコ州のサンタフェまで一日で走ったり、ソルトレークシティからデンバーまでとか(これは、あまりにも計画が無謀なことに気づき、途中でモーテルに泊ったが・・・)。グランドキャニオンには4度も行ったし、先ごろ有名になったアリゾナ州辺りに点在するパワースポットにも各所に顔を出している。

大学受験生レベルの、全くコミュニケーションのとれない英語力しか持ち得なかったゆえ、都会をぶらぶらするよりも一人で快走していることの方が気楽だったのかもしれない。

そんなアメリカドライブの最初の挑戦は、サンフランシスコからロサンゼルスまで。ほぼずっと太平洋の海岸沿いを走る「バシフィックコーストハイウェイ」と呼ばれる風光明媚な道を走ること。途中、クリントイーストウッドが町長を務めたというカーメルやサンルイオビスポという町に2泊し、かなりゆったり目の日程だったが、最終目的地サンタモニカに着いたときには、本当にクタクタ。それと、なれない土地、なれない運転での緊張から開放された反動で、強烈に寂しく孤独感にさいなまれていた。

晩ごはんにしようと、サンタモニカの賑やかなショッピングストリートを歩くも、一度押し寄せた孤独感はひどく重くのしかかり、とてもつらく、強烈に楽しくなくなってきた。どこか、日本語できちんとコミュニケーションがとれる和食の店や鮨屋に入ろうかと思うも、なかなか見つからず、とぼとぼと歩き続けた。

だんだんと人通りも少なくなり、結局「引き返すか」と戻ろうとした、その時。今まで歩いてきたショッピングストリートから少し脇に入った一角で、めちゃめちゃ賑わっている店があった。通りまで人があふれ出し、嬌声は遠くまで響き渡っている。

よおし。
なんだかこのモヤモヤした気持ちを断ち切りたく、財布の中身を確認しつつ、いっちょココに入ったるか! と、度胸を決めた。周りの状況や店のメニュー等は全く確認せず(確認すると怖気づきそうで)、つかつかと店の中に進んだ。
すると、、、ランニングシャツにホットパンツ、強烈なボインで金髪のお姉さんが、凄い勢いでローラースケートに乗ってやってきた。

「なんちゅうとこや、ここは・・・」と思ったが、もう遅い。彼女は、早口でベラベラベラと何か言い、カウンタの一角へとぼくの手を取って誘導した。

その店はなんと、2010年の10月ついに東京にも上陸したスポーツバーの「Hooters」だった。
とにかくビールと、隣りの人が食べていておいしそうな鶏の唐揚げ(後にチキンウイングと知る)を指差して、ボインのお姉さんに注文した。

楽しかった・・・。ハリウッド映画の中に自分がいるようだった。
店の中ではずっと、ボインで金髪のお姉さんを眺めているだけだったけど、運転の疲れも孤独感もすっかり忘れてしまった。彼女たちは、なにゆえ、あんなに明るくて快活でフレンドリーなのか(まあ、当時はチップの仕組みもよく分かっていなかったけど)。そして客も皆、どうしてあんなにもウレシそうにおしゃべりをしているのか。

残念ながら字幕スーパーはなかったけど、英語という言語の圧倒的なパワーとコミュニカティプな魅力に、震えが来そうだった。

よおし。
いつかきっと、こんな中に入っても物怖じしないぐらいに英語が使えるようになってやる。スッカリ乾いてしまったビールグラスにふと気づいて、ようやく「Check Please」という言葉を搾り出したぼくは、そう心に誓っていた。

アレから20年か・・・。
さ、東京の「フーターズ」。いつ行くかな。

パリと京都

今回のフランス旅行では、意識的にパリに立ち寄らなかった。

ぼくにとって、世界の街でどこが一番好きかと聞かれれば、「パリ」と答えるぐらい思い入れの強い場所。パリ以外のヨーロッパに出掛ける機会でも、ほとんどパリ経由にして前後でパリに滞在するのが常だった。

しかもパリでは、ついに結婚をされた幸せなカップルなど、さまざまな友人・知人の顔も思い浮かぶ。ただ、ヨーロッパの他の国とは違い、パリに滞在してそれからフランスの地方へ移動すると、やはりパリでの印象が強すぎて落差が大きいんじゃないかなあ、という気がしていた。

パリに行かなかったのはすごく残念としても、その判断は正解だったかと思う。

パリとフランスは違う。ちょうど、京都と日本が異なるのと近い。そう、サイズ的にも、真ん中に川が流れている様子も、古さと新しさが同居するさまも、プライドの高さも、パリと京都は似ている。そんな排他的なところや財布を簡単にすられるほど治安が悪くても、それ以上に魅力的な街がパリ。

ヴォナス村でミシュラン三ツ星レストラン「ジョルジュ・ブラン」はどこですかと聞けば、村人全てが指差してくれるが、パリの7区で同じく三ツ星の「アルページュ」はどこですかと尋ねても、誰も知らないし答えられない(答えてくれない)。

リヨンで地図片手に迷っていれば、すぐさま(フランス語で)声がかるが、パリではそんな状況で話しかけられたことは一度もない(というか、すでに地図を片手に歩くこともなくなってはいるが)。

パリの三ツ星レストランに入れば、周りは東洋人やアラブ人の席に通されることが多いが、田舎のオーベルジュ(宿泊施設付きのレストラン)の場合は、そこの宿泊施設に泊まっている限り、ダイニングでは常に最上の席が用意されていた。

都会の愉しみと田舎の喜び。それをうまく切り分けることの出来る国、それがフランスなのかな、ということが少し分かった。そういう意味では、日本において東京は田舎の集合体で都会ではない。ああ、久しぶりに京都に行きたくなってきたかな。

ベンザ?

かなり前だがある方のブログで、洋式トイレの便座の話題が出ていた。少し引用してみると・・・、

「自分をバッチリとレストランでエスコートしてくれる男性。その男性の後にトイレに入ったとして、便座が上がったままだと、正直な気持ち、がっかりする。なんというか、人が見てないところではエスコートしてくれない、みたいな。」

この話がキッカケ、というワケではなくずっと以前から、ぼくは、家庭でもパブリックの男女兼用のトイレでも、用を足した後は必ず便座を下げるようクセをつけている(もしくは小用でも座る)。それでも自分が出た後に女性が入ったりすると、忘れたんじゃないかとハッとするが、そうならないためにも習慣が大切だと考えている。

これまた古い話題。西麻布に「真」という鮨店があって、オープン当初訪れた際、「真」の化粧室の便座はセンサーがヒトを感知して上下する画期的なものだった(最近でこそ多くの飲食店に見られるが、当時はかなり目新しかった)。

ぼくは、手を使って食べることもあるお鮨屋さんとして、直接便座に触らなくてもいい便器を採用したことをコラムで絶賛したところ、すしフリークの面々から、「そんなところに金をかけるなら、鮨の値段を下げろ」と総スカンをくらってしまった。

なぜこんな便座の前フリをしたか、といえば、先ごろフランスを旅した際、トイレに便座が付いておらず、相当驚いたのである。いろいろ調べたり聞いたりしたところ、ヨーロッパでは比較的珍しいことではないようだが・・・。

その便座なしトイレの場所とは高速道路のサービスエリア。ガソリンスダンドに併設された機能的で清潔なコンビニの奥にあり、比較的大きなスペース。そこにあった自動販売機でオニオンスープを飲んだら非常においしく、さすがフランスや とか感心していたところ同時に少しもよおしてきたのだった。

もちろんそこのトイレも清潔で広く美しく、用を足すにも絶好な感じ。で、個室に入るとなんだか変。いわゆる白く光っている洋式トイレの便器があるだけで、便座がないのだ。いろいろな角度から検証してみたが、結局存在しない。

ま、故障かなと思いつつ、隣の個室へ。
やっぱりない?。その隣りも隣りも、空いている個室は全部見たが 
ナイ。

ううむ。ないのか。
考えてみれば、男性用の個室ゆえ目的は大きい方だけなわけで、便座の上げ下げという手間は基本的には行わない。極めて合理的ではあるよな。

でもどうやってするの? 直接便器に腰をかけるのかなあ・・・。それはどうも抵抗があるし、結局便意も萎えてトイレを出た。

後で聞くと、中腰のままいたすとの意見があった。であれば、和式と同じか、もしくは和式より辛い体勢ってこと?
ちなみに女性のトイレには便座は付いているとの報告あり。であれば、便座の付いたトイレと付かないトイレの二種類作るほうがコスト高になるのでは、という気もする。

こんな状況では、西洋にウォシュレットが導入されるのも相当先になるだろう。

ビクトリアパークの女性たち

さらに続く香港話。

ぼくたちが泊まったホテルは香港島側、銅鑼湾(コーズウェイベイ)というエリア。ファッション系のビルが立ち並び、裏通りに入るとオシャレなカフェや洋風のレストランなどもあってなかなか。若者が多く集まる場所で、東京で例えるなら渋谷といったところか。ただ前回も書いたように、香港の若者は皆さん素直で歳相応でピュアな感じなので、街並みが渋谷といっても歩いている人々はまったく渋谷とは様相が異なる。

ぼくが宿泊したホテルの前には、ビクトリアパークという大きな公園が広がっていて、ニューヨークのセントラルパークとまではいかないものの、ホテルの眼前に公園が広がるというのもまたいいものだ。

日曜日の午前、ぼくはビクトリアパークをいまだ訪れていないことに気づき、一度散歩でもしてみようかなと、ふらふらと公園のほうへと向かった。

最初はあまり気にならなかったが、しだいに公園が近づくにつれ不思議なことに気づいた。そして公園内を歩くうちにその不思議さは確信に変わった。おびただしい数の若い女の子で公園が溢れ、その数はますます増加していたのである。

最初は大学のサークルとか趣味の集まりかなあと、ぼんやり考えていたが、全て女性である理由がない。であれば、若い女性に人気の男性アイドル野外コンサートでもあるのかなあとか、そんな風にも考えた。
ただ、女性の中に、白人はもちろん黄色人種(中国人)もいない。全て、フィリピンやタイの出身かとおぼしき褐色の肌の皆さんばかりなのである。

ああ、これはもしかしたら宗教上の集会なんだろうかと、少し場違いな雰囲気も漂ってきたので、早々にホテルへと戻る。そのホテルに向かう道すがらも公園に集まる多数の女性とすれ違い、ホテル内でも、涼しい建物内を通路代わりに通る女性と肩が触れ合った。

凄い集まりだなあ・・・と、今更ながら未知のパワーに恐れおののき、ホテルのフロント係に、あの多数の若い女性集団は何ですか? と早速質問。すると実に明快な答えが返ってきた。

「彼女達は香港でメイドとして働く女性。多くはインドネシアやフィリピンからの出稼ぎです。香港にはメイドさんが20万人以上もいて、普段は住み込みで24時間労働なんだけど日曜日だけはお休み。かといって遊ぶお金もあまり持っていないので、こうして毎週日曜日にお弁当とかを持参して公園に集まり、ずっと一日中オシャベリを楽しんでるんです」とのこと。

なるほど・・・。
日本に戻って少し調べてみると、香港の富裕層ではメイドさんの雇用がマストの様子。高級マンションにはあらかじめメイドさんの部屋が用意されているのも普通だそう。結果、子育てはほとんどメイドさんの仕事となり、女性の社会進出を促進する一方で、託児所や保育所などの施設は全く発達せず、メイドさんを雇わないと子育ては困難を極めるのだそうだ。

でも、人種の差、宗教の差は未だ歴然とあり、問題は絶えないと綴る。