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旅行の記事 (1/2)

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GWの東北

毎年、GWは東北を訪問している。
といっても、震災以降の話ではあるが。

7年前、東北の太平洋側全域に大きな震災があり、自分に何ができるかを誰もが考えた。
すでにボランティアをするほどの体力はなく、寄付してもたかがしれているし、どこに使われているのかも分からない。ならば自分の本分でもある食べることを自然体でやろうと思った。
助け合いとの名のもと結局は大変な苦労をしょいこんでいる畏友もおり、ごくごくシンプルながら続けられることが、やはり基本だ。

現地に行って、現地の方々と話す。もちろん毎年うまいものを食べに来ているんですと単純に言い続ける。
震災後すぐは、そんな人たちも大勢いたに違いないし、それから何年も続いていたとも思う。
毎年来てるんですよと言うと東北の皆さんから感謝の言葉をいただくが、そのお気持ちは、彼ら彼女らが下げる頭の角度が年々深くなっているような気がして、逆に今年も来てよかったと安堵する。

現地は少しずつではあるが、更地だった場所の上に、新しい家、新しい商業施設が出来上がっている。みんなピカピカで人間味がなく、CGの中を車で走っているような感覚に陥る。何か、街として今も将来もワクワクするような、総合的な景観づくりが図れなかったのか。特に、コンビニ、薬局、携帯キャリアなどのショップは無機質極まりなく、それこそ低予算映画のセットのようだ。ここで買い物をしたいという気持ちには、ならないなあ・・・。

いっぽう、女川や南三陸や陸前高田の海岸沿いは、数年前とは盛り土の高さが変わっただけ。というか、海っぺりで育った人たちの多くは丘に居を移し、すでに海岸沿いは暮らす場所ではなくなったというのか。それぞれの自治体の思惑の結果が、このボウハテイ、なのだろうか。
さらに毎年当時のままなのは、大川小学校跡。裁判係争中で触れられない部分もあるとは思うが。

石巻や気仙沼のような少し大きな町は、海岸沿いに真新しい倉庫や水産加工場ばかりが立ち並び、道路だけがやたらとキレイに整備されている。こちらは、設計事務所がプレゼン用に造る建築模型のようだ。そこには「営み」や『息吹き」は見つからない。

毎年のことだけど、東北の海岸を北上すると、それなりに普段とは違う疲労感に気づく。
それもあってか、復路は山形県との県境辺りまで入って山側を下り、温泉地に逗留するのが楽しみ。
今年は「肘折温泉」へ。肘折とは、言葉のごとく肘を折った人がここの温泉につかって治ったという言い伝えからきたらしい。まさに湯治場だ。
例年に比して、相当暖かかった2018年ですら、まだ雪が残り通行止めの道もある奥地。
いやー、いいとこでした。
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パリでのこと

フランスとスペインの国境辺り、バスク地方を旅したときのこと。
ビルバオやサンセバスチャンといったスペイン美食の町を歴訪した後フランス側に抜けて、バイヨンヌの空港からパリへと戻ることにしていた。飛び立った小さな飛行機は、パリのオルリー空港へ到着。機内の狭い通路に乗客が立ち、それぞれの荷物を上の棚から降ろす、いつもながらの風景。こうなると急ごうにも前がつかえて、確実に前から順にしか降りることはできない。

ぼくのすぐ後ろに、一刻も早く降りたいとムズムズしているおばあさんがいた。真っ赤なコートを着て姿勢もよく、いかにもフランス女性といったカッコよさ。お顔は相当しわしわだが60歳半ばぐらいだろうか。
「ムゥー」と、西洋人特有の言葉を発し、いら立ちを隠せない。

赤いコートのおばあさん、トイレでも行きたいのか、電車の時間があるのか。あまり急ぐ理由が思いつかなかったのだが、早足で歩くぼくの横をすり抜け、ひたすら出口を目指し、そのままゲートをくぐる。出迎えやガイドなど、たくさんの人が待っている中に黄色いコートを着たおじいさんがいて、そのおじいさんの胸に、一目散に飛び込んだ。まさに「抱擁」という言葉がふさわしい、硬く熱いハグ。

うわっ、そーだったんだ・・・。
ぼくは小さく感動しながらも、生理現象には勝てずにトイレへと入る。

すっきりした後、同じ方向にとって返したら、出てきたときと寸分変わらない状態で、
二人は抱き合って微動だにせず・・・。赤と黄色のコントラストがぼくの目に激しく焼き付いた。

パリ、だよなあ。

盛岡のこと

少なくとも、週に一度以上は文章のデッサンをしたいと思って再スタートしたものの、あっという間に数週間たってしまった。先週も先々週も週末は東京におらず、モバイル用として使っているパソコンには、ブログの設定もしていなかつた。

その間、先々週は盛岡だった。
盛岡は好きな街、なにより人がいい。
クラクションの鳴らない街と、盛岡の人は自ら言う。
ホテルのフロントに始まり、タクシーに乗っても、道を聞いても、飲食店でも・・・。
回りの他人に対する思いやりを人一倍感じる。
つまりクルマのクラクションがどんなに相手に不快なものか、という「思いやり」があるのだ。

夜の盛り場を一人で歩いてたら、酔っぱらった男女数人がいて、そのうち一人の女性が
お前なんか轢かれてしまえと、道路の真ん中に引っ張り出された。
あくまで酔ってふざけた行為であり、その道路も裏道でクルマが頻繁に走るような感じではない。
ところがたまたま、そこにタクシーが一台通りかかってしまった。
タクシーは女性の手前で止まり、女性が道路の端に移動するまでその場で静かに待っていた。
当然、クラクションは鳴らさない。
正直、信じられない光景だった。もちろんタクシーの行動が、である。

ぼくがイベントの仕事をしてきた中で、一番というぐらい大切で大好きな大手電機メーカーの元担当者と会った。
今は事情があって大会社を辞め、故郷の盛岡で暮らしている。
神戸の震災翌年、ぼくの父が他界し、多少仕事に影響するようなおヒマをいただき復帰した際、クライアントでは唯一その方だけがお香典をくださった。もう20年以上前だが、その恩義は今も忘れない。いや、一生忘れないよね。
さすが、盛岡民なんだ。

永く長くその方と話していて、いつしか震災のことになった。
岩手県は震災で多大な被害を受けたが、それは海岸沿いの町ばかり。
盛岡も激しく揺れライフラインは数日止まったそうだが、内陸部ゆえ陸前高田や大船渡のような津波の被害を受けたわけではなかった。もちろん死者や行方不明者も出なかった。ところが震災以降は違ったそうだ。
同じ県の中に、ものすごい被害を受けた町や人がいることを、盛岡市民は決して忘れなかった。

盛岡の人ってねえ、震災後、海岸の町の復興にすごく東奔西走したんだよ。それこそ命を縮めるぐらいね。ぼくの土建屋の同級生も、震災の翌日から一日も休まず働き、三年前に死んじゃったよ。次はぼくかもなあ・・・といった。

松木さん、また会いに行きます。

英語が使えるようになりたい

1990年代の始めのころ、ぼくは毎年アメリカ本土に渡り、クルマで一人旅をしていた。

何気なくアメリカ在住の友人のクルマを運転したことがキッカケで、アメリカでドライブという魅力にとりつかれ、全州をクルマで走破してみようとの計画を立てた。テキサス州のダラスからニューメキシコ州のサンタフェまで一日で走ったり、ソルトレークシティからデンバーまでとか(これは、あまりにも計画が無謀なことに気づき、途中でモーテルに泊ったが・・・)。グランドキャニオンには4度も行ったし、先ごろ有名になったアリゾナ州辺りに点在するパワースポットにも各所に顔を出している。

大学受験生レベルの、全くコミュニケーションのとれない英語力しか持ち得なかったゆえ、都会をぶらぶらするよりも一人で快走していることの方が気楽だったのかもしれない。

そんなアメリカドライブの最初の挑戦は、サンフランシスコからロサンゼルスまで。ほぼずっと太平洋の海岸沿いを走る「バシフィックコーストハイウェイ」と呼ばれる風光明媚な道を走ること。途中、クリントイーストウッドが町長を務めたというカーメルやサンルイオビスポという町に2泊し、かなりゆったり目の日程だったが、最終目的地サンタモニカに着いたときには、本当にクタクタ。それと、なれない土地、なれない運転での緊張から開放された反動で、強烈に寂しく孤独感にさいなまれていた。

晩ごはんにしようと、サンタモニカの賑やかなショッピングストリートを歩くも、一度押し寄せた孤独感はひどく重くのしかかり、とてもつらく、強烈に楽しくなくなってきた。どこか、日本語できちんとコミュニケーションがとれる和食の店や鮨屋に入ろうかと思うも、なかなか見つからず、とぼとぼと歩き続けた。

だんだんと人通りも少なくなり、結局「引き返すか」と戻ろうとした、その時。今まで歩いてきたショッピングストリートから少し脇に入った一角で、めちゃめちゃ賑わっている店があった。通りまで人があふれ出し、嬌声は遠くまで響き渡っている。

よおし。
なんだかこのモヤモヤした気持ちを断ち切りたく、財布の中身を確認しつつ、いっちょココに入ったるか! と、度胸を決めた。周りの状況や店のメニュー等は全く確認せず(確認すると怖気づきそうで)、つかつかと店の中に進んだ。
すると、、、ランニングシャツにホットパンツ、強烈なボインで金髪のお姉さんが、凄い勢いでローラースケートに乗ってやってきた。

「なんちゅうとこや、ここは・・・」と思ったが、もう遅い。彼女は、早口でベラベラベラと何か言い、カウンタの一角へとぼくの手を取って誘導した。

その店はなんと、2010年の10月ついに東京にも上陸したスポーツバーの「Hooters」だった。
とにかくビールと、隣りの人が食べていておいしそうな鶏の唐揚げ(後にチキンウイングと知る)を指差して、ボインのお姉さんに注文した。

楽しかった・・・。ハリウッド映画の中に自分がいるようだった。
店の中ではずっと、ボインで金髪のお姉さんを眺めているだけだったけど、運転の疲れも孤独感もすっかり忘れてしまった。彼女たちは、なにゆえ、あんなに明るくて快活でフレンドリーなのか(まあ、当時はチップの仕組みもよく分かっていなかったけど)。そして客も皆、どうしてあんなにもウレシそうにおしゃべりをしているのか。

残念ながら字幕スーパーはなかったけど、英語という言語の圧倒的なパワーとコミュニカティプな魅力に、震えが来そうだった。

よおし。
いつかきっと、こんな中に入っても物怖じしないぐらいに英語が使えるようになってやる。スッカリ乾いてしまったビールグラスにふと気づいて、ようやく「Check Please」という言葉を搾り出したぼくは、そう心に誓っていた。

アレから20年か・・・。
さ、東京の「フーターズ」。いつ行くかな。

パリと京都

今回のフランス旅行では、意識的にパリに立ち寄らなかった。

ぼくにとって、世界の街でどこが一番好きかと聞かれれば、「パリ」と答えるぐらい思い入れの強い場所。パリ以外のヨーロッパに出掛ける機会でも、ほとんどパリ経由にして前後でパリに滞在するのが常だった。

しかもパリでは、ついに結婚をされた幸せなカップルなど、さまざまな友人・知人の顔も思い浮かぶ。ただ、ヨーロッパの他の国とは違い、パリに滞在してそれからフランスの地方へ移動すると、やはりパリでの印象が強すぎて落差が大きいんじゃないかなあ、という気がしていた。

パリに行かなかったのはすごく残念としても、その判断は正解だったかと思う。

パリとフランスは違う。ちょうど、京都と日本が異なるのと近い。そう、サイズ的にも、真ん中に川が流れている様子も、古さと新しさが同居するさまも、プライドの高さも、パリと京都は似ている。そんな排他的なところや財布を簡単にすられるほど治安が悪くても、それ以上に魅力的な街がパリ。

ヴォナス村でミシュラン三ツ星レストラン「ジョルジュ・ブラン」はどこですかと聞けば、村人全てが指差してくれるが、パリの7区で同じく三ツ星の「アルページュ」はどこですかと尋ねても、誰も知らないし答えられない(答えてくれない)。

リヨンで地図片手に迷っていれば、すぐさま(フランス語で)声がかるが、パリではそんな状況で話しかけられたことは一度もない(というか、すでに地図を片手に歩くこともなくなってはいるが)。

パリの三ツ星レストランに入れば、周りは東洋人やアラブ人の席に通されることが多いが、田舎のオーベルジュ(宿泊施設付きのレストラン)の場合は、そこの宿泊施設に泊まっている限り、ダイニングでは常に最上の席が用意されていた。

都会の愉しみと田舎の喜び。それをうまく切り分けることの出来る国、それがフランスなのかな、ということが少し分かった。そういう意味では、日本において東京は田舎の集合体で都会ではない。ああ、久しぶりに京都に行きたくなってきたかな。
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