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W杯のサポーター

サッカーの世界的な大会など、大きな試合があると、その結果を伝えるテレビ番組は毎回、サッカーの試合内容よりサポーターの大騒ぎの方が尺が長い。母校だとか生まれ故郷で応援する人々、そして大騒ぎする渋谷駅前。
毎度社会問題となり、まったくDJでもないのにDJポリスと呼ばれる警察官が脚光を浴び、あそこにいけばテレビに映るかもしれないと勘違いする若者たちであふれる。

そんなところでの収録って誰が観たいのだろう。得点が入るシーンより、得点して大騒ぎしている人たちの映像の方が確実に長時間見せられるのが現状だ。有識者による各選手のコンディション状態チェック、得点場面や失点場面の解説や他の手段についてなど、取り上げるべき興味深い内容はいくらでもある。しかし、放映の大半は大喜びして、はんばねえとか叫んでる人たちばかり。サッカー好き一家の朝からを追っかけたりしてる番組もあって少々呆れた。

理由は分からないでもない。きっと放映権料がバカみたいに高いに違いない。
なので、リアルなシーンをできるだけ使わずに臨場感や興奮を伝えようとする各社が、同じような展開になる。

しかも大半はにわかサッカーファンで、ものまねされる本田とCMによく出ている香川ぐらいしかおそらく知らない。大迫や乾が出てきても、それが本田や香川以上に海外で活躍し評価されている選手であることを認識していないがゆえに、テレビのスポーツコーナーで突然取り上げられる。無料、もしくは価格の安いコンテンツをあそこまで準備しているというのは、たいしたもの、ではあるが。

ところで、日本対ポーランドでの日本の戦い方について物議をかもしている。
ちなみに監督の采配というかあの決断の是非はここでは問わない。それは日本サッカー協会が選んだ監督個人の問題だ。というより、グループステージは勝敗を決める場ではない、という大前提に立つべきかなと思う。時間内に勝負が決まらなければ引き分けという終わり方なんでしょ。そして一点ずつ分け合いましょうというルール。このステージは、お互いどのようにしてポイントを獲得するかを競う場であって雌雄を決するのはトーナメントに出てから、という理解が正しいと思う。なので、ポイントを獲るための手段は、得点以外でも、がむしゃらであっていいと考えている。

今日は世界禁煙デー

今日、5月31日は世界禁煙デーだそうだ。
禁煙後進国の日本は、そんな日をどう受けてめているのだろうか。
日本に禁煙が進まないのは為政者のせいだとよく言われる。

ぼくは、喫煙に否定的ではない。タバコという嗜好品にどう向き合おうと、それは個人の自由だし、美味しいと思う人もいて、リラックスや気分転換にも欠かせないとする愛煙家も受け入れる。
ただ、飲食店を禁煙にしてほしいのと、喫煙者を特別扱いにしてほしくないだけだ。

飲食店を禁煙にするのは当然である。禁煙にすると客が来なくなると反対する経営者の古すぎる考え方にはいら立ちさえ覚える。煙たいから行かない、入らないとする客がいかに多いかも考えないのだろうか。かくいうぼくも、食後にバーやスナックへはすっかりいかなくなってしまったが、その最大の理由は煙いからだ。煙が全くない場所で食事をして、その後モクモクの空間に行きたいか?

G7などと先進国の仲間にも日本は入れてもらっているが、その中で飲食店でもタバコが吸える国は日本だけである。
まあ、先進国の喫煙者は、日本は天国だと言ってたけどね。

それにもまして疑問に思うのは、喫煙者への特別扱いである。酒を飲めばテーブルチャージみたいなものを普通に取るのに、タバコを吸って灰皿チャージを取る店は皆無。灰皿の管理、吸い殻の始末、煙による空調の清掃などもすべて、吸わない人も支払っている。
もっとも典型的な例は、新幹線の中にある喫煙ルーム。この部屋に入るのがタダだと最近知ってがく然とした。ずっと有料だと勝手に思っていた。車両に喫煙ルームを作るのにはいくらの費用がかかるのだろうか。それをタバコを吸わない乗客へも按分して運賃として払わされていることに疑問を呈しないのか。

ちなみにJR東日本の新幹線には喫煙ルームがないのに東海にはあるのは、明石家さんまが新幹線に喫煙ルームがないなら、もう大阪では仕事はしないと言ったから、という説がまことしやかに流れている。
結局、明石家さんまのギャラが高騰して、在版の局では扱えなくなってしまったが・・・。

正義とは何か

東京オリンピックのごたごたから始まって、相撲、レスリング、ボクシング、アメフトと、およそ涙と汗のスポーツの世界にふさわしくない出来事がたて続けに起こっている。組織の矛盾、閉塞感、絶対制等々、オドロな世界を庶民は連日見せつけられ、夢と希望をなくしている。

ぼく個人は全く興味がないけど、スポーツ観戦は、安価で万人が平等にストレス解消できる娯楽。その娯楽の根幹が踏みにじられ続けた。そこに見え隠れするのは、正義とは何かという金科玉条で、ヒトはその正義を振りかざすこと(振りかざすのを見ること)で、留飲を下げている。つまり、スポーツにおける試合というルールにのっとったうえで雌雄を決めるのではなく、どちらかを正義にして相手を悪者にすることで、悦に入ってるようにも見える。

その最たる具現が、記者の質問だ。
記者の質問は、自分が正義の立ち位置で、自分が正義を振りかざしている状況に酔っている。
ヘタだなあ・・・とつくづく思う。もう少し違う質問の仕方、ズルくいえば、相手から自分が欲しい答えを引き出す誘導ができないのか。司会のじいさんが、同じ質問ばかりするな、という気持ちも、ある意味わからないではない。

メディアをバックに持っているだけで自分が正義だと勘違いし、正義を振りかざせば勝てると信じているのだろうが、質問は、それでは成り立たない。Aと聞いて本音が引き出せなければBの問いを持ち出す。それでも話につかみどころがなければ、Cを使って相手を追い詰める。そんな工夫がなければ結局は単なる押し問答で、翌日の新聞見出しは各社一様に同じ文字が並ぶのだろう。

ぼくは、テレビのレギュラーで60人以上の食堂経営者から話を聞き、その後もラジオやウェブ連載で話を聞き続けている。その経験から言えることは、取材を引き受ける以上、その人は話したいことがあるのが前提だ。ただ、話をするプロではないのと、カメラ等が向けられているので、理路整然と持論を展開するのは至難の業である。質問する側は、気持ちをほぐしそこをフォローし答えを手助けするのが仕事なのだ。
正義を振りかざすのが役割ではない。というか、記者が正義を振りかざせば、悪者にされたくない相手は、頑なに押し黙るしかない。

笑いの芸を採点するということ

ぼくは、「魚沼さんこしひかり」のころから松本人志のウオッチャーである(って、ちょっとマニアックだけど 笑)。
そんなぼくが感じる最近のまっちゃんは、頻繁に面白い、面白くないという言葉を口にする。

これは面白い。おまえ全然おもんないやんけ等、すべての判断基準を、きちんと松本の目線での面白いか面白くないかを、きっぱりとキッチリと即断し、それを口にする。先日も「一本グランプリ」を観ていたら、ミキの昴生に対し、面白くない面白くないと何度も言って、それがまた、大舞台にのまれた昴生への救いと愛情を感じさせた。

松本人志は、あえてお笑いの芸を審査員として採点することに踏み込んだ人である。M1グランプリをはじめ、キングオブコントは元々MCだったのに審査の側に移った。前述の一本グランプリでもチェアマンを務める。
たけしやさんまにも、おそらく頻繁にお笑いクランプりの審査員へのオファーはあったと聞くが、彼らは芸に優劣をつけることはできないとして引き受けなかったと聞いた。

松本人志が、最近特に面白い面白くないを言うのは、加えて、面白いか面白くないかをトークの遡上に上げるのは、何が面白のかが分りにくくなっているからではないかなと感じる。最近のテレビでは、本物かニセモノか、必ず笑い声が入るし、客を集めての収録でも、何が面白いのか分からないまま、つられて笑っているような場面も多い(というかそんな場面ばかり)気がする。

面白さの本質とは何か、みんな笑っているけど、本当に面白いのか。松本人志は、それをクリアにし際立たせたいがために、面白い面白くないと言い続け、芸人の最高舞台であるグランプリの審査に取り組んで、彼自身が考える「面白い」に採点という形で視聴者に分らせようとしているのではないだろうか。

それを自分に当てはめると、美味しいかおいしくないか、である。それは笑い以上に千差万別で個人差も大きく、さらに定義するのが難しい。ただ、それを誰かが改めてきっちり手掛けていかないと、ますますおいしさの本質がプレて、せっかくの食材そのものの味や卓越した料理人の技術が、どんどん埋もれてしまう。いや、それを分かる人がいないと、作る側のモチベーションも下がるばかりである。

たけしやさんまとは全く比較するに至らないけど、ぼく個人も料理店に対する採点を控えてきた。
採点を主眼とした仕事のオファーも、僭越ながらお断りをしている。
ただ、松本人志の真摯な動きを見ていると、自分も「おいしさの採点」に踏み込むべきなのかなあと、ふと思うようになった。

マクドナルドは、なせマクドなのか。

マクドナルドのことを、関西ではマクドという。
この事実はすでに広く知られてきたみたい。時折り東京でも、わざとマクドとの声が聞こえてきたりして(発音は「マ」にアクセントがありイマイチだが 笑)、マクドの浸透率も高い。

先日オーストラリア人から、なぜ大阪ではまくど(ひらがなで書いた方がニュアンス伝わりそう)というのかと質問された。

そこでぼくは、こう答えた。
マクドナルド、正確にはマクドナルズのことをマクドというのは、後半を略したわけではなく、実際に日本人、特に耳のいい(笑)関西人にはそう聞こえるからだと。

英語が発音通りに輸入され、ダイレクトな外来語となっている日本語は数多い。
レモネードがラムネ、ホワイトシャツがワイシャツ、マシンがミシン、アメリカンがメリケン・・・。

ところが、外来語を一言一句カタカナに置き換えるという愚行?が日常化し、正確なネイティブの発音と日本語のカタカナとが全く違う発音となってしまった。例えば、エコノミーとかコミュニケーションとか、それこそマクドナルドも、そのままの発音では決して英語ネイティブには理解できないのだ。

そこで、最初に戻ろう。マクドナルドのネイティブの発音は、極端に書くと、マックダーァナルズとなり、後半のナルズはほとんど聞きとれない。つまり、レモネードがラムネと聞こえた日本人には、マクダーァナルズがマクドになるわけね。

長々とくだらない理屈にお付き合いいただきありがとうございました(笑。