2010年04月15日の記事 (1/1)

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40年変わらない大阪鮨

先週は、ほぼ1週間大阪に滞在した。もともと生まれ故郷ではあるけど、平成に替わるあたりから完全に離れているので、すでに20年を越えた。毎日、朝から晩まで大阪弁に囲まれて生活をするのは、ぼくには非日常。特に女性の大阪弁に、トキメキつつ違和感もあったかな。

原則イベント会場近くのホテルにカンヅメだったが、少し時間を見つけ大阪梅田駅周辺に出てみた。というのも、時間が許せば、25年ぶりぐらいになる小さな鮨店を訪ねてみようかと思ったのである。その鮨店は、大阪キタと呼ばれる梅田周辺では、現在もそこそこ評価されている様子。投票形式のランキングサイトでもかなり上位につけている。

オープンして40年。まだ阪急梅田駅が阪急百貨店の横にあったころからその地で営業している。その後阪急梅田駅は大改装。ずっと十三寄りに大きなターミナルを作り、従来の引き込み線の部分はコンコースとなった。そこは、映画「ブラックレイン」で松田優作がバイクに乗って走ったシーンが強烈だ。

その鮨店は、もの凄く狭く小さい。築地場内にも狭い鮨店は多々あるけど比較にならないぐらい狭い。コの字カウンターにぎりぎり10席程度で、客の後ろはほとんど全て引き戸。座った人の後ろを通れるスペースはないので、客は思い思いに引き戸を開け目の前が空いていればラッキーといった具合。

ぼくが到着すると、今まさに入らんとするミドルエイジのカップルがいて、あ、これはむりかなーと危惧しながらも、彼らとは反対側の戸を引いた。するとぼくの目の前以外はすでに埋まっていたが、なんとか席を確保することができた。

以前から25年は経っているので、狭いことを除くと全く記憶にない。ただ、間違いなく目の前に立つご夫妻は白髪ではなかった(当たり前か)。そして今ほど丸くもなかったような気がする。そう、ふくゆかでほんわかとした似た感じのお2人が、板場で丁々発止の夫婦漫才を繰り広げている様は不変のよう。

いやー、ちっとも変わっていない。来てよかった。もちろん鮨の味は全く覚えいてないが、お好みでと告げ何品かお願いした。

醤油・小皿等がカウンターに見当たらない(ま、置く場所もないほど狭い)と思っていたら、ツメをつけて出された。合理的だし本格的。おおっと瞬時は期待するが・・・。

ううむ。コレが40年変わらない大阪のにぎりなのか・・・。懐かしさよりも前に悲惨な気持ちになってしまった。極論づければ、目の前のコレはぼくの知る鮨ではない。昆布と酢で味をつけたご飯に分厚く切った刺身を載せたモノ、でしかない。

ぼくが東京に出て初めてプロデュースした東京ガスの仕事で、東京ガス本社にお礼に訪れた帰り、映像の監督に連れられて行った浜松町の某店。そこで、過去に自分が見知っているものとは全く異質の「鮨」を初体験。多くの人が言う、うどんのつゆの違いなど比べものにならないぐらいの「大阪との違い」に衝撃を受けた。同じ日本に住んでいてコレだけ違うものを食べているのか。自分はいかに鮨を知らなかったか。

その後の20年にわたる鮨行脚も、ここがキッカケで、このときがスタートである。
その20年をググッと振り返りながら、頼んだ三種類のにぎりを食べ終え、それ以上はもう食べることができず、電話で急に呼び出されたと断りを入れて支払いをした。

さて、江戸前のにぎりは、関東大震災で店舗が倒壊し職場を失った鮨職人が、仕事を求めて散らばり全国に広まったと聞く。それぞれが地の魚を使って、その地の舌に合うような味付けするなど、徐々にアレンジを加えていった結果が今の形なんだろう。

でも、ぼくの住んでいた時代、大阪は完全に東京をライバルだと思っていたし、東京とは違う文化が尊ばれた。その後大阪の全てが東京化していく悲しい状況を帰阪するたび目の当たりにし、すでに大阪は、地方の政令指定都市のひとつでしかなくなった。であれは、この梅田の鮨店は逆に変わらない大阪の象徴なのかもしれない。

あまりの味の違いにショックで飛び出してしまったけど、次回はもう少しじっくりと向き合って、大阪人のスピリッツを探してみたい気持ちが今は強い。


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