2010年11月の記事 (1/3)

峰打ち

日本の時代劇では、峰打ち(みねうち)というすばらしい言い訳がある。

時代劇は勧善懲悪がお約束。必ず悪は最後に懲らしめられ滅びる。ただ、善であるのに悪人をバッサバッサと刀で切りつけることに対し、日本人的になにかしらの違和感がある。そこで峰打ちの登場だ。ご承知のように峰打ちとは、日本刀の背面にあたる峰の部分で相手を叩くこと。刀の部分ではないので、一応命には別条がないとの解釈ができる。水戸黄門での助さん格さんは、この峰打ちを多用する。いつも刀を裏返すとき、カキン!と効果音が入り(実際にはこんな音がするわけがないのだが)、峰打ちであることを強調する演出も定番だ。

ところで先日、アンジェリーナ・ジョリー主演の映画「ソルト」をツタヤで借りて観た。アクション映画としては、アンジーファンの満足のみに終わらない、よくできた作品で、いざアンジーが悪なのか善なのか、最後まで明かされずにハラハラする台本も秀逸。

(以下、ネタバレごめんなさい)ただ、ハリウッド映画の最大のお約束は、勧善懲悪、というか勧米懲悪。例えば、シュワ氏が悪役で登場した「ターミネーター」で一躍人気者となったとたん、続編の「ターミネーター2」では、自分より優れたサイボーグから人間を守るためにわが身を投げ打つ役という、驚愕の転身。これぞまさにハリウッドの真骨頂だと、徹底したステレオタイプを貫く姿勢にあらためて感服したこともある。

つまりアンジー主役の「ソルト」でも、最初からアンジーが悪役ではない、ということを誰もが信じつつ、多くの安心感と少しの不安感の中で展開を見守る。そしてその結末は最後の最後まで分からない。とてもうまい構成だと思う。

ただなあ・・・。逃げる「ソルト」役のアンジーは、追ってくるFBIやCIAの人間をほとんど銃で撃つことをしない。素手で大の男を何人も倒し気絶・無力化させる。つまり銃で「峰打ち」することは不可能なので、相手を殺さない大前提としては、アメリカ映画ではカンフーしかないわけだ。

パンパンと、自分に対抗する勢力をピストルやマシンガンで撃つアメリカ映画を見慣れていると、アンジーが戦うシーンで突然カンフーになることにかなりの違和感があるし、やっぱりな・・・、というネタバレの思いも募る。さらに、細い女性が屈強のシークレットサービスを素手で倒し、そんな彼らが一様に気絶して無抵抗になる場面にリアリティがなさすぎる。そのリアリティのなさに制作者側も気づいているのか、アンジーは、スパイ養成所時代からどんなに優秀な生徒だったかという回想シーンも少々長すぎ。

実際に人に銃を向けた経験のある元兵士も豊富にいて、そういった実体験に基づいた映像を作るハリウッドに比べ、日本の時代劇のチャンバラシーンには全く戦闘としてのリアリティはないけど、峰打ちとは、なかなかうまい「言い訳」だなあと改めと関心してしまった。