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訃報 見田盛夫さん

昨日は朝青龍の話題でもちきりだったが、ぼくにとっては、もっとずっと重大でとても悲しいニュースがひとつ。見田盛夫さんがお亡くなりになった。

見田さんはフランス料理をこよなく愛し、日本のフランス料理の発展に半生を捧げた方である。フランス料理の料理人や関係者なら、必ずどこかで影響を受けているはずだ。

現役でご活躍のころはお目にかかっても親しくお話をすることはかなわなかった。いっぽう、評論家として一線を退かれて以降は、ぼく自身の人間関係が広がっていたこともあり、見田さんの奥様も交え何度か食事をご一緒しお話を聞く機会があった。ぼくの原稿にも目を通してくださっていたようで「若いんだから、もっと感じたことをストレートに書きなさい」と毎度叱られていた。

一度、フランス料理のランチとディナーを続けてご一緒したことがある。当時60代の後半というお歳だったが、「ぼくはフランス料理が好きだから、好きなものなら何度でも続けらけるよね」と茶目っ気タップリに言われた。

それ以外にも見田さんの言葉で思いついたものを少し。
白金の「シェ・トモ」にうかがったとき、細いバス通りに面した店の立地を称して「前を通るバスの音や動きを見てると、この店が実は一番パリっぽいんだよな」。
「レクラシオンナリサワ」の成澤氏がフランスから戻って最初に開いた早川の「ラナプール」にうかがったとき、シェフのビスクを称して「彼のものが日本では一番フランスに近いよ」。
恵比寿の今はなき「レトワール」では、野兎のロワイヤルをご一緒した。「三鴨君のロワイヤルがフランスを除けば一番だよ」と言われて勇んでトライしたが、アソコまで強烈に臭い料理は人生初(それ以降もあまり記憶にない)。
8人ぐらいのテーブルで、完食できたのはぼくともちろん見田さんのみ。


もっとも著名な仕事は、「グルマン」というフランス料理のガイド本を、山本益博氏と共著で80年代後半から90年代の後半まで毎年刊行されていたこと。拙宅にはその全てがあるが、レストランに対する厳しい視点と深い愛情が詰った労作である。そして今読んでみても、そのひとつひとつがぼくの書く原稿よりずっとストレートで自信にも満ち溢れている。

一軒のレストランを選ぶにもまったく手探りだった時代。ぼくは「グルマン」という唯一のガイド本が毎年刊行されるのを心待ちにしていた。ほとんどその本でしか新規オープンの情報すら得られなかったからである。

いっぽう、客単価が2万も3万もするレストランにさえ新規オープンには先を争ってネットのコレクターが押し寄せ、記憶ではなく記録に残そうとする現代。見田さんは晩年の床でどのように感じておられたのだろう。


「グルマン」という本は、最終的には見田さんと山本氏が袂を分かつことで廃刊になった。その経緯を直接見田さんの口からうかがったことがある。とんでもなくひどい話だったが、それをここに書くことは控えたい。

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