自分の記事 (2/3)

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共感とは

雑誌「PRESIDENT」の最新号(といっても3/20ぐらいに発売されたもので、この日記は、その時点で書いたままアップできず放置状態でした)に、「今これだけは外せない」厳選109冊という特集があった。

レストランガイド本にはほとんど食指が動かないけど、こういった本の紹介には目がないぼくは、大変興味深く読ませていただいた。その中で、元マイクロソフト社長で書評家でもある成毛眞氏が「文学・教養」のカテゴリを担当。成毛氏紹介の10冊に特に心を動かされた自分を振り返り、「評価に対する共感」とはこうして生まれるんだなと、つくづく関心してしまった。

紹介記事の傾向として、自分がその分野に詳しいことを誇示するがごとく、ひたすらレア物とか、ときには絶版等の羅列が多かったりするが、全く賛同できない。ぼくの立場に置き換えると、イタリア料理「アロマフレスカ」や鮨「水谷」は素晴しい店ではあるが、予約が取れないので一般には紹介しにくいのと同様だ。

それをふまえて、成毛氏の10冊はこうである。
まず「水滸伝」。きちんとどの訳者が優れるかまで言及。次にハードボイルドでは、原寮とギャビン・ライアル。SFでは景山民夫の「遠い海から来たCOO」とJ.G.バラード。そして「鴨川ホルモー」。

この時点で、すでに唸りまくり。いいなあ、好きだなあ、この流れ。歴史モノもエンタメ系も王道ながら、きっちり外さない。「コート・ドール」も「アカーチェ」も入ってる感じ。続いてイマを象徴するような作品。例えば「フロリレージュ」とか(笑。

この6冊はすでに読了していて、どうイイかも分かっている。ならば、成毛氏が推薦する残りの4冊も、きっと自分のツボだろう~すべて読んでみたい。と強く念じた。

そして、自分を省みながら、こんな風に「評価」に対する「共感」が生まれるんだなあと、改めて実感。

再度ぼくの立場で説明を繰り返してみると、ぼくが10軒のレストランを紹介したとして、その10軒ともご存じなければ、ぼくがどんなにスゴイ評論家だとしても、その見解は単なる参考意見なだけ。何人も共感はしないだろう。ところが、10軒のうち5軒ぐらいすでに行ったことがあり、その5軒がそのヒトにぴったりハマルなら、残りの5軒も外れはないぞと「共感」してもらえる。

レアな作家や絶版の書をいかにカッコよく紹介しても、あまりに自分とはかけ離れていて「共感」が生まれないのと同様である。

さっそく、読んでいなかった4冊のうち「特命全権大使米欧回覧実記 普及版」をアマゾンで購入。寡聞にもこの書の普及版(現代語訳)が上梓されていることを知らなかった。この本は、岩倉具視使節団による、わが国はじめての632日にわたる世界一周旅行日記。

ようやくブログをスタートさせたぼくには、かなりの刺激と指南になりそうな気配。

チー坊(綾戸智絵さん)のこと

チー坊が過労で入院したとのニュースを見た。
ああいった元気な方には、もしかしたら常にウラ側はつきもので、精神的にもとてもしんどい状況だったのかなあとも拝察する。

実は、ぼくは25年ぐらい前から彼女のことを知っている。ぼくには現在の綾戸智恵より、旧名 綾戸智絵の方が馴染み深い。大阪のライブハウスやジャズバーでよく歌っていて一緒に飲んだこともあるし、大阪のジャズメンやジャズバーのオーナーにはとても可愛がられていた。当時のステージでの彼女は、ミニのワンピ姿だった印象が強く髪もウチ巻きで、松本伊代や松田聖子風。おかげでよくモテたし男性問題も起こしていた。

ただ、今大阪に帰ってそんな店で飲んでいると、皆一様にチー坊のことをあまりよくは言わない。自分たちは、歌う仕事を提供し応援も惜しまなかったが、結局、後を濁しながら東京に出て行って昨今は全く音沙汰がない。昔の恩ははるか彼方の様相だ。とは、過去の人の誰もが持つ寂しさであって、そうぼやくネタがあるだけでも存在価値は十分かとも思うけどね。

ぼくはチー坊がメジャーデビューしたことを全く知らなくて、友人宅のパーティで「このヒト凄いんだよ」とCDを聴かされた。歌が始まった瞬間すぐに気づき「えっ、これチー坊ちゃうのん」と、驚愕した。そんな驚愕するぼくに、友人はもっと驚いていたが・・・。

そんなチー坊だが、ぼくには生真面目で努力の人とのイメージが強い。明るく軽く振舞っているが、あんなにピアノが弾けてキレイな英語の歌を歌うという印象はなく(だたの記憶違いかもしれない危惧はあるが 汗)相当練習を重ねたんだろうな。以前ネイティブにチー坊の歌を聴かせたことがあり、日本人が歌っているとは信じられない英語だと真剣に驚いていた。ただ、あの小さい身体なから声量は今以上に凄く、グラスがびりびりと震えるぐらいだったと思う。

彼女が東京に出てきてからも縁があるのか、ぼくの隣りのマンションに住んでおられるようで(最近見かけないので、今は不明)、お母さんの肩を支えながら歩くシーンを何度もお見かけした。現在留学中の息子さんとぼくは、同じヘアーサロンだ。ただ、すれ違って目を合わすものの全くぼくには気づかないけど(笑。

大阪やアメリカでの生活は相当ハチャメチャだったとも聞こえてくるので、それゆえの熱心すぎる看護の現在が、彼女をひどく疲れさせたのかもしれない。日本人では唯一無比とも言えるあの歌声は、末永く聴かせてほしいものだ。

元カノの姉

先日、実に20年ぶりに旧知の女性と会って食事をした。
初めて出会ったのはぼくが大学生のころ。彼女は、親友の元カノのお姉さんでぼくと同い年。親友とその妹が付き合っていたころは、「お姉ちゃん」と、まるで若乃花が「お兄ちゃん」と言われるのと同様に、そう呼んでいた。

彼女は東京在住の男性と遠距離恋愛の末結婚。ぼくより一足先に東京を基盤に仕事や生活を始めたので、ぼくが東京に出たとき、飲み&仕事に繋がりそうな友達を何人か紹介してくれた。PCで金魚が飼えるソフト「AQUA ZONE」を開発。その後、日赤通りにロックバー「08:30」を作った大砂美保もその一人であった。

その後彼女は妊娠~出産して主婦業に専念。そして、かれこれ20年近い月日が経った。

多くの利発な女性はきっとそうだろうと想像するが、主婦業に専念して誠心誠意育てた子供はやがて成人し、そこで自分が新たに得た時間をどう使うかと考える。もちろん、ともに子育てで協力し合った亭主との第二楽章をスタートさせるか、子供が成長していく過程で徐々に気持ちが離れ、将来展望にも乖離が生まれたオトコを見限って、新たな人生に踏み出すか。

彼女は後者を選び、そして気持ちの切替のために旧友にも会ってみようかと、そんな意欲も生まれたようだ。
彼女は初めて出会ったころと同様に聡明で、穏かに人を包み込むようなしゃべり方も変わらなかった。
彼女は「むかし、いとうくんに連れて行ってもらったバーのマスターが、私の大阪弁はすごいええなあって、言ってくれたん覚えてるで」と、うれしそうに語った。

そう、今ぼくの回りで、そしておそらくこれからも、ぼくのことを「いとうくん」と呼ぶ女性は、彼女と彼女の妹しか存在しないような気がする。ま、同窓会ても出れば別だろうけど。

多くの人は、あっという間に時間は縮まって出会ったころに戻れるんだよねと言う。もちろんその通りで、一気にフランクな間柄になりバカ話に花が咲く。でも、バカ話だけをして笑い転げて終わるような関係は、単にそれだけなんだよね。昔を語りつつも、今のこの瞬間のお互いをリスペクトできて、相手の生き方がステキと思えなければ、結局単なる美しい記憶の反復にしかならないように思う。

そして彼女はイマも輝いていた。主婦業に専念する前のキャリアを使うには古過ぎるが、それをイマでも活用できるよう独学で勉強。独り立ちするために中堅会社の総務部に就職し、会社のIT化や事業改革に奔走しているという。もちろん若かりしころのやんちゃネタにも腹を抱えたが、彼女のイマを聞いている方が、ぼくにはずっと面白く楽しかった。

そして。
「わたしはな、この歳でも時々コクられたりするねんで。独身やねんし、ええやんなあ」と、照れくさそうに笑った。。



1970年3月14日

大阪で万国博覧会、通称大阪万博がスタートした日である。
それから40年たったんやなあ・・・。

当時小学生で、万博会場まで自転車で行ける距離に住んでいたぼくは、今でこそ言えるが、会場の柵をくぐれるヒミツのスポットが友達の間ですでに露見していて、ぼくは大阪万博にそれこそ十数回は無料で入れてもらった。

もう少し大人だったらもっと面白くタメになっただろうなと今にして思うけど、あの万国博覧会が大阪で開催されたことに今更ながら驚きと感動を覚えるし、それに向けて大阪の街がドラスティックに変わっていく様子は40年経っても記憶に鮮明だ。

ぼくは大阪万博で初めてハンバーガーを食べ、無修正動画を見て、コードレス電話をかけ、電気自動車に乗った。そして、三菱、三井、住友という巨大財閥の凄さを子供ながらに知った。

近年、携帯電話・ハイブリッドカーは当たり前だし、ハンバーカーチェーンが恐ろしいまでに普及、無修正動画も珍しくなくなった。ただそれはすべて大量の需要がベースにあるからで、描かれた未来を実現するためには、まず圧倒的な需要の存在がマストなんだと認識する。

またぼくは、世界各国の出展パビリオンに出向いてスタンプを集めるという子供らしい(笑)目標を持っていた。そんな思い出のノートも今どこにいってしまったのか・・・。ただその時初めて、ハイチやモーリシャスという小さな国があることを知り、民族衣装を着た黒人やヒスパニックの方とも握手をした。

そしてなにより、国には、企業には、「力の差が歴然とある」ことを知ったのだった。


ところで。
ぼくがフランス語圏に行くといつも通訳を頼んでいるパリ在住のパトリック君は、大阪万博のフランス館でコンパニオンをしていた阪急淡路にある鮨屋のお嬢さんが、来日中のフランス人と恋に落ち、彼女がフランスまで追いかけて結婚し生まれた二世である。まさに大阪万博の申し子ということか。

あと。
大阪のエスカレーターが左側を急ぐヒトのためにあけるという東京と真逆の習慣は、大阪万博で初めて導入された「動く歩道(これをなぜか、みんな「歩く歩道」と呼んでいたなあ)」のどちら側をあけるかを決める際、世界標準に習ったことにさかのぼるらしい。アジアもヨーロッパもアメリカも、ぼくが訪れた世界中のどの都市も、今でも大阪と同じである。

プレッシャー

来週から、久しぶりに少しプレッシャーのかかる仕事にとりかかる。
あっという間に終わってしまうし同じような仕事の現場に過去何度もかかわってきたんだけど、若干今までとは違う厳粛なテーマに基づいて動かねばならず、言葉の一つ一つやヒトの扱いにも神経を尖らせている。

その中で、ある特別な色を様々な箇所に表現する必要があり、その色を各方面に正確な言葉で伝えなければならない局面にぶつかった。
その色には日本古来からの名前が付いているが、普通に生活する中で実際に見ることができる可能性は低い。しかもネットで検索すると様々な写真がヒットするのに、そのいずれもが同じ色をしておらず(写真なんてそんなもんである 笑)、いやーまいった、と悩ましい。

実際に見た人から送られてきたメールがこれまた頭を抱えてしまう。○○(具体的な企業のコーポレートカラー)よりは薄く、スカイブルーよりは濃い。「?」。

ネットの検索では、写真以外にも印刷インクの日本の基準であるDICナンバーでの表記はないだろうかとか、世界的な色見本の標準であるPANTONで表示があるんじゃないかとも思ったが、どんなに探しても見つからない。

そして、やっとその色を数字で現す約束事を見つけた。一応この数字で色をデジタル的に規定して、もろもろの統一を図ろう。とまあ、こんな感じで心配な課題をコツコツ潰している。

でもなあ・・・。アラフィフの自分が抱えている、日常を若干逸脱するような程度のプレッシャーに比べたら、キム・ヨナの演技が終了し場内大歓声の中自分の番が回ってきた瞬間の齢19歳とは、比較の対象にならない。渋谷区長賞とノーベル賞ぐらいの違いがあるよね(って、具体的にはあまりよくわからんが)。

何度も何度もテレビに登場する、ヨナの演技終了後の大歓声と、それを聞くまいとヘッドホンを耳に当てて集中する浅田真央のスタート直前シーン。その時の彼女の心情は、想像を絶する。

そんなことを考えながら、真央VSヨナの余韻に浸った。
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