自分の記事 (2/3)

チー坊(綾戸智絵さん)のこと

チー坊が過労で入院したとのニュースを見た。
ああいった元気な方には、もしかしたら常にウラ側はつきもので、精神的にもとてもしんどい状況だったのかなあとも拝察する。

実は、ぼくは25年ぐらい前から彼女のことを知っている。ぼくには現在の綾戸智恵より、旧名 綾戸智絵の方が馴染み深い。大阪のライブハウスやジャズバーでよく歌っていて一緒に飲んだこともあるし、大阪のジャズメンやジャズバーのオーナーにはとても可愛がられていた。当時のステージでの彼女は、ミニのワンピ姿だった印象が強く髪もウチ巻きで、松本伊代や松田聖子風。おかげでよくモテたし男性問題も起こしていた。

ただ、今大阪に帰ってそんな店で飲んでいると、皆一様にチー坊のことをあまりよくは言わない。自分たちは、歌う仕事を提供し応援も惜しまなかったが、結局、後を濁しながら東京に出て行って昨今は全く音沙汰がない。昔の恩ははるか彼方の様相だ。とは、過去の人の誰もが持つ寂しさであって、そうぼやくネタがあるだけでも存在価値は十分かとも思うけどね。

ぼくはチー坊がメジャーデビューしたことを全く知らなくて、友人宅のパーティで「このヒト凄いんだよ」とCDを聴かされた。歌が始まった瞬間すぐに気づき「えっ、これチー坊ちゃうのん」と、驚愕した。そんな驚愕するぼくに、友人はもっと驚いていたが・・・。

そんなチー坊だが、ぼくには生真面目で努力の人とのイメージが強い。明るく軽く振舞っているが、あんなにピアノが弾けてキレイな英語の歌を歌うという印象はなく(だたの記憶違いかもしれない危惧はあるが 汗)相当練習を重ねたんだろうな。以前ネイティブにチー坊の歌を聴かせたことがあり、日本人が歌っているとは信じられない英語だと真剣に驚いていた。ただ、あの小さい身体なから声量は今以上に凄く、グラスがびりびりと震えるぐらいだったと思う。

彼女が東京に出てきてからも縁があるのか、ぼくの隣りのマンションに住んでおられるようで(最近見かけないので、今は不明)、お母さんの肩を支えながら歩くシーンを何度もお見かけした。現在留学中の息子さんとぼくは、同じヘアーサロンだ。ただ、すれ違って目を合わすものの全くぼくには気づかないけど(笑。

大阪やアメリカでの生活は相当ハチャメチャだったとも聞こえてくるので、それゆえの熱心すぎる看護の現在が、彼女をひどく疲れさせたのかもしれない。日本人では唯一無比とも言えるあの歌声は、末永く聴かせてほしいものだ。

元カノの姉

先日、実に20年ぶりに旧知の女性と会って食事をした。
初めて出会ったのはぼくが大学生のころ。彼女は、親友の元カノのお姉さんでぼくと同い年。親友とその妹が付き合っていたころは、「お姉ちゃん」と、まるで若乃花が「お兄ちゃん」と言われるのと同様に、そう呼んでいた。

彼女は東京在住の男性と遠距離恋愛の末結婚。ぼくより一足先に東京を基盤に仕事や生活を始めたので、ぼくが東京に出たとき、飲み&仕事に繋がりそうな友達を何人か紹介してくれた。PCで金魚が飼えるソフト「AQUA ZONE」を開発。その後、日赤通りにロックバー「08:30」を作った大砂美保もその一人であった。

その後彼女は妊娠~出産して主婦業に専念。そして、かれこれ20年近い月日が経った。

多くの利発な女性はきっとそうだろうと想像するが、主婦業に専念して誠心誠意育てた子供はやがて成人し、そこで自分が新たに得た時間をどう使うかと考える。もちろん、ともに子育てで協力し合った亭主との第二楽章をスタートさせるか、子供が成長していく過程で徐々に気持ちが離れ、将来展望にも乖離が生まれたオトコを見限って、新たな人生に踏み出すか。

彼女は後者を選び、そして気持ちの切替のために旧友にも会ってみようかと、そんな意欲も生まれたようだ。
彼女は初めて出会ったころと同様に聡明で、穏かに人を包み込むようなしゃべり方も変わらなかった。
彼女は「むかし、いとうくんに連れて行ってもらったバーのマスターが、私の大阪弁はすごいええなあって、言ってくれたん覚えてるで」と、うれしそうに語った。

そう、今ぼくの回りで、そしておそらくこれからも、ぼくのことを「いとうくん」と呼ぶ女性は、彼女と彼女の妹しか存在しないような気がする。ま、同窓会ても出れば別だろうけど。

多くの人は、あっという間に時間は縮まって出会ったころに戻れるんだよねと言う。もちろんその通りで、一気にフランクな間柄になりバカ話に花が咲く。でも、バカ話だけをして笑い転げて終わるような関係は、単にそれだけなんだよね。昔を語りつつも、今のこの瞬間のお互いをリスペクトできて、相手の生き方がステキと思えなければ、結局単なる美しい記憶の反復にしかならないように思う。

そして彼女はイマも輝いていた。主婦業に専念する前のキャリアを使うには古過ぎるが、それをイマでも活用できるよう独学で勉強。独り立ちするために中堅会社の総務部に就職し、会社のIT化や事業改革に奔走しているという。もちろん若かりしころのやんちゃネタにも腹を抱えたが、彼女のイマを聞いている方が、ぼくにはずっと面白く楽しかった。

そして。
「わたしはな、この歳でも時々コクられたりするねんで。独身やねんし、ええやんなあ」と、照れくさそうに笑った。。



1970年3月14日

大阪で万国博覧会、通称大阪万博がスタートした日である。
それから40年たったんやなあ・・・。

当時小学生で、万博会場まで自転車で行ける距離に住んでいたぼくは、今でこそ言えるが、会場の柵をくぐれるヒミツのスポットが友達の間ですでに露見していて、ぼくは大阪万博にそれこそ十数回は無料で入れてもらった。

もう少し大人だったらもっと面白くタメになっただろうなと今にして思うけど、あの万国博覧会が大阪で開催されたことに今更ながら驚きと感動を覚えるし、それに向けて大阪の街がドラスティックに変わっていく様子は40年経っても記憶に鮮明だ。

ぼくは大阪万博で初めてハンバーガーを食べ、無修正動画を見て、コードレス電話をかけ、電気自動車に乗った。そして、三菱、三井、住友という巨大財閥の凄さを子供ながらに知った。

近年、携帯電話・ハイブリッドカーは当たり前だし、ハンバーカーチェーンが恐ろしいまでに普及、無修正動画も珍しくなくなった。ただそれはすべて大量の需要がベースにあるからで、描かれた未来を実現するためには、まず圧倒的な需要の存在がマストなんだと認識する。

またぼくは、世界各国の出展パビリオンに出向いてスタンプを集めるという子供らしい(笑)目標を持っていた。そんな思い出のノートも今どこにいってしまったのか・・・。ただその時初めて、ハイチやモーリシャスという小さな国があることを知り、民族衣装を着た黒人やヒスパニックの方とも握手をした。

そしてなにより、国には、企業には、「力の差が歴然とある」ことを知ったのだった。


ところで。
ぼくがフランス語圏に行くといつも通訳を頼んでいるパリ在住のパトリック君は、大阪万博のフランス館でコンパニオンをしていた阪急淡路にある鮨屋のお嬢さんが、来日中のフランス人と恋に落ち、彼女がフランスまで追いかけて結婚し生まれた二世である。まさに大阪万博の申し子ということか。

あと。
大阪のエスカレーターが左側を急ぐヒトのためにあけるという東京と真逆の習慣は、大阪万博で初めて導入された「動く歩道(これをなぜか、みんな「歩く歩道」と呼んでいたなあ)」のどちら側をあけるかを決める際、世界標準に習ったことにさかのぼるらしい。アジアもヨーロッパもアメリカも、ぼくが訪れた世界中のどの都市も、今でも大阪と同じである。

プレッシャー

来週から、久しぶりに少しプレッシャーのかかる仕事にとりかかる。
あっという間に終わってしまうし同じような仕事の現場に過去何度もかかわってきたんだけど、若干今までとは違う厳粛なテーマに基づいて動かねばならず、言葉の一つ一つやヒトの扱いにも神経を尖らせている。

その中で、ある特別な色を様々な箇所に表現する必要があり、その色を各方面に正確な言葉で伝えなければならない局面にぶつかった。
その色には日本古来からの名前が付いているが、普通に生活する中で実際に見ることができる可能性は低い。しかもネットで検索すると様々な写真がヒットするのに、そのいずれもが同じ色をしておらず(写真なんてそんなもんである 笑)、いやーまいった、と悩ましい。

実際に見た人から送られてきたメールがこれまた頭を抱えてしまう。○○(具体的な企業のコーポレートカラー)よりは薄く、スカイブルーよりは濃い。「?」。

ネットの検索では、写真以外にも印刷インクの日本の基準であるDICナンバーでの表記はないだろうかとか、世界的な色見本の標準であるPANTONで表示があるんじゃないかとも思ったが、どんなに探しても見つからない。

そして、やっとその色を数字で現す約束事を見つけた。一応この数字で色をデジタル的に規定して、もろもろの統一を図ろう。とまあ、こんな感じで心配な課題をコツコツ潰している。

でもなあ・・・。アラフィフの自分が抱えている、日常を若干逸脱するような程度のプレッシャーに比べたら、キム・ヨナの演技が終了し場内大歓声の中自分の番が回ってきた瞬間の齢19歳とは、比較の対象にならない。渋谷区長賞とノーベル賞ぐらいの違いがあるよね(って、具体的にはあまりよくわからんが)。

何度も何度もテレビに登場する、ヨナの演技終了後の大歓声と、それを聞くまいとヘッドホンを耳に当てて集中する浅田真央のスタート直前シーン。その時の彼女の心情は、想像を絶する。

そんなことを考えながら、真央VSヨナの余韻に浸った。

真にいいもの

百貨店の物産展担当バイヤーと食の通販のバイヤーをお引き合わせした。
お二人とも、熱烈とか突撃とかの冠が付くぐらい、食べることや、おいしいものを作るヒトを愛する情熱家。

しかもお二人は、ビジネスライクとか利益追求といった企業戦士の常識にまったく当てはまらない、食を守り、安全・安心を追求し、ブランドイメージや流行に関係なく、自分の舌と聞き込みで間違いなくイイと判断した食品のみを催事会場や通販で紹介・販売している。

例えば「5日で腐る塩辛」。今の時代5日で腐る塩辛なんてほとんど市販されることはないそうだが、そこには防腐剤等の薬品が使われているゆえの長い賞味期限。であれば、5日で腐ってしまうぐらいフレッシュでまざりもののない食品を提供しよう、といった発想である。

彼らはすさまじい行動力で隠れた生産者を探し、アポをとり、催事場や通販での販売のお願いに回っている。そこには、生産者に対する敬意や愛情があふれ、またそれをまじめで正直な消費者にストレートに届けようと心がける。しかも、より安価に販売できなければ自分たちは失格とまで言う。つまりすべてはヒトに向いて日々仕事をしているのだ。

その日、食事が比較的早く終わり、二軒目に流れる雰囲気だったのに何となく自然解散。どこか立ち寄ろうかと思いつつも家に着いてしまう。しょうがなくお茶に切り替え、オリンピックでも見ようかとテレビをつけた。そして、チャンネルを回していたら、たまたま村上龍を久しぶりに見た。そうカンブリア宮殿である。

その日のゲストは、「青山フラワーマーケット」の社長。そしてその彼がテレビに向かって話す内容が、昼間の熱烈突撃バイヤーとあまりに違うことにガクゼンとした。

いろいろとキレイゴトは言っている。でも、彼にとっては、いかに店に人を止め、アルバイトを駒のように使い、安く仕入れた花をイメージとブランド戦略でうまく化粧をし、できるだけ高く売るか。に徹している。

仕入れに対し売値が高すぎる花の市場やロスの多さに目を付けたのはさすがといえよう。でも、花に対する愛情はなく単なる金儲けの道具として扱い、粗悪品でも粗悪品と見えないよう、グラスブーケとかキッチンブーケといった軽やかなネーミングで売り切る。つまり、今までの花市場の構造を逆手に取りロスを最小限に留めて巨額の利益を上げるわけだ。

確かにアイデアにあふれ、すごいビジネスモデルで成功した勝ち組。でも、ナマモノを扱う使命感や愛情、そして消費者を幸せにしようという気概は残念ながら感じられなかった。昼間の熱烈突撃バイヤーからは、その気概しか感じられなかったというのに・・・。

少なくとも自分や自分たちは、ブランドにとらわれない真にいいものそして愛情を持って届けられたものを見分ける知識や、手に入れるネットワークを得るためにお金を使いたいと思うなあ。