盛岡のこと

少なくとも、週に一度以上は文章のデッサンをしたいと思って再スタートしたものの、あっという間に数週間たってしまった。先週も先々週も週末は東京におらず、モバイル用として使っているパソコンには、ブログの設定もしていなかつた。

その間、先々週は盛岡だった。
盛岡は好きな街、なにより人がいい。
クラクションの鳴らない街と、盛岡の人は自ら言う。
ホテルのフロントに始まり、タクシーに乗っても、道を聞いても、飲食店でも・・・。
回りの他人に対する思いやりを人一倍感じる。
つまりクルマのクラクションがどんなに相手に不快なものか、という「思いやり」があるのだ。

夜の盛り場を一人で歩いてたら、酔っぱらった男女数人がいて、そのうち一人の女性が
お前なんか轢かれてしまえと、道路の真ん中に引っ張り出された。
あくまで酔ってふざけた行為であり、その道路も裏道でクルマが頻繁に走るような感じではない。
ところがたまたま、そこにタクシーが一台通りかかってしまった。
タクシーは女性の手前で止まり、女性が道路の端に移動するまでその場で静かに待っていた。
当然、クラクションは鳴らさない。
正直、信じられない光景だった。もちろんタクシーの行動が、である。

ぼくがイベントの仕事をしてきた中で、一番というぐらい大切で大好きな大手電機メーカーの元担当者と会った。
今は事情があって大会社を辞め、故郷の盛岡で暮らしている。
神戸の震災翌年、ぼくの父が他界し、多少仕事に影響するようなおヒマをいただき復帰した際、クライアントでは唯一その方だけがお香典をくださった。もう20年以上前だが、その恩義は今も忘れない。いや、一生忘れないよね。
さすが、盛岡民なんだ。

永く長くその方と話していて、いつしか震災のことになった。
岩手県は震災で多大な被害を受けたが、それは海岸沿いの町ばかり。
盛岡も激しく揺れライフラインは数日止まったそうだが、内陸部ゆえ陸前高田や大船渡のような津波の被害を受けたわけではなかった。もちろん死者や行方不明者も出なかった。ところが震災以降は違ったそうだ。
同じ県の中に、ものすごい被害を受けた町や人がいることを、盛岡市民は決して忘れなかった。

盛岡の人ってねえ、震災後、海岸の町の復興にすごく東奔西走したんだよ。それこそ命を縮めるぐらいね。ぼくの土建屋の同級生も、震災の翌日から一日も休まず働き、三年前に死んじゃったよ。次はぼくかもなあ・・・といった。

松木さん、また会いに行きます。

ローラという存在

テレビの話ばかり書いてるような気がするが・・・。
ローラというタレントがテレビに登場した最初、衝撃的だったなあ。
自分のことを、ローラですとか、ローラと申します、ではなく、
ローラだよ、というのである。しかも大物と称されるMCに向かって。

当初はMCもひな壇に並ぶタレントや芸人も相当驚いたであろう。
(その辺が予定調和だったのかどうかは、視聴者には知るすべもないが)

社会に出ると、出会った人とタメ語で話すにはとても勇気がいる。
同い年やその周辺の世代とは、タメ語で話すほうがコミュニケーションは深まるとぼくは考えるし、
年下ならさらにそうだが、やはりそれなりのけじめが必要だ。
今日からタメ語で話そうよと、何人かの友人に宣言をしたり、
同い年の仲間でグループを作って、タメ語で話すことを唯一の参加資格として決めたこともある。

ただ、ローラのおかげで世間は『慣れた』。
当初の強烈な違和感も、結局は慣れるものなのだ。
つくづく慣れって怖いなあ、というか、慣れさせることの重要性を改めて認識した。
ローラ以前と以降では、話し言葉に対する様相がすっかり塗り替えられてしまったようだ。
タメ語が、個性から日常になった。
ローラ以降のタレントはホントウに楽だったと想像する。

こうして敬語のよさ、ひいては日本流の礼儀が失われていくことに危惧する層も多いが、ぼくは最近、特に英語で話す機会が多くなるにつれ、あまりそう感じなくなった。

当然だが、20代の若者にも英語では、Hi Akira!と言われるわけで、自分が何歳だからとか、そんな気負いや面倒くさいことを考える間もなく、すーっとフランクな人間関係に入れる。かといって、英語圏の若者に礼節がないわけではなく、きちんと敬うべき部分については態度で表明してくる。
日本特有の敬語は、もはや振る舞いではなく処世術として使う時代が来たのかもしれない。

そうそう、ローラは父親が詐欺まがいのことをやったにもかかわらず、まったくお咎めがなくテレビに出続けている。
例えば親が生活保護を受けていて干された、次長課長の河本とかと比べても、あまりある厚遇だ。

そう、すでにローラは、日本のテレビ業界に、不可欠の絶対的な存在なのだろう。

日本酒の末路

ぼくは自分の著書では、日本酒と書かずに清酒としている。
その意味も同時に著しているが、子供のころ日本酒が大好きだった祖父に、
「おじいちゃん、日本酒好きなんやなあ」といったところ、
「なにいうてるねん。これは日本酒とちごて酒や。なんで日本人のわしらが、自分たちの酒のことをわざわざ日本酒といわなあかんねん。外人でもsakeというやろ」と怒られたことに起因している。

そして今回は清酒の話である。
今ちょうど流れているJR東日本のCM(おや、またテレビの話のようだ)。
♪冬のごほうび~冬のごほうび・・・とかわいい歌が流れ、その後にナレーションが続く。
「東北は米がうまい。だから酒がうまい。来たれのんべい」
東北は米がうまい。そしてうまい酒もある。ただそこには何の関連性もない。
食べるブドウとワイン造りに使われるブドウが違うのと同様に、
酒造りに使われる米と、ぼくたちが普段食べる米は別の種類なのである。

酒造りに使われる米の最高峰は、兵庫県もしくは岡山県産と言われている。
東北の蔵は、農家と酒造りに適した米を地元で生産する努力をされ、そんな米を使って個性的な清酒を醸すことに成功しているが、ほとんどは食米とは別の種類。また、それぞれの蔵が自ら最上に位置付けている酒には、兵庫県産の米を使っている。
天下のJRが基本的に間違ったナレーションをしていること自体、母国の酒の成り立ちを軽視しているとしか思えず、またまたおじいちゃんに怒られそうである。

ただ、個人的にはもっと悲しいCMがこの冬に流れている。
それは月桂冠の糖質カットの酒である。
わざわざ米から糖質を作ってそれを発酵するという作業で清酒は作られるのに、その糖質をカットするという本末転倒ぶりに目を覆いたくなるが、それよりもっと救いようがないのは、糖質カット日本酒のCMだ。

そのCMで流れるナレーション。
「Smooth&Dry つまり淡麗辛口。」
悪夢だ。

清酒は淡麗辛口でなければならない、という歪んだ間違った概念が過去に出来上がり、新潟を中心に個性のない水みたいなシャバシャバ酒ばかりが売り出され、その結果清酒の発展が20年は遅れたと言われている。
やっと今、その矛盾や無意味さに気づいた若手の蔵人が、旨口ともカテゴライズされるそれぞれの蔵の個性を発揮できるテイストの酒を醸し始め、清酒の業界は活況を呈してきた。本当に喜ばしくて楽しみなことだ。
(といっても、今だ大手の酒蔵の売り上げがベースとなる統計ではトータルの売りは下がっていると聞く)

客は今でも、居酒屋で酒の好みを聞かれると「辛口がいいな」と普通にいう。
蕎麦に何の疑問も感じずに七味唐辛子を入れるのと同じ、反復動作としか思えない現象だ。
おいしくて特徴のある清酒を集めるようになった居酒屋のスタッフは全員、心の中で笑っている(実際に笑うやつもいる)。
最近は平気で、当店に辛口の日本酒はありません、と言ったりメニューに書いているところもある。
辛口とおっしゃいますが、具体的にどんな味でしょうかと質問するヤツもいる。もちろん実際に答えられる客はいない。たぶんぼくに聞かれても、答えられないだろうけど。

ビール業界はスーパードライという一つのブランドだけで、普通のビール以外に「辛口」という市場を作った。そこには極めてマーケティンク的にすぐれた仕掛けがあったからに他ならない。いっぽう清酒は、端麗辛口と縛ることによって、暗黒時代に突入した。月桂冠ほどの大手なら、そんな時代の記憶もあるだろうに・・・。

LとR

自分たちが日本人に生まれたことは抗いのようのない事実で、日本人である以上、日本人であることを強く主張し続けることが正しいと信じている。
なので、自分が英語を話す際、ネイティブっぼく話したいとはまったく思わない。
というより、ネイティブとは何なのか。単にアメリカ映画で使われている英語ということに尽きるだろう。
米語を話す人種とそれ以外とでは、世界的にみたらおよそ半々だとも言われている。
あえてアメリカ人でもないのに米語(日本人が思うネイティブ)を話す必要はなく、あくまで日本人として日本語訛りの英語を、きちんと相手に誤解されないように発音して伝えることが肝要なのだ。
というか、アメリカが世界に与える影響力はどんどん低下していくのが自明の理だが、英語が世界の共通語であることはもはや不変だろう。であるなら、シンガポールのシングリッシュのようにジャングリッシュで何が悪いのか。
そもそも、もともとはイギリスを経由して英単語は日本に入ってきた。だからトメイトと言わずにトマトと日本人はいうのである。

日本のテレビで常に最高視聴率をキープしている人気番組「世界の果てまでいってQ」で、出川哲朗が海外の都市にておつかいをする「はじめてのおつかいin海外」というコーナーがある。あるテーマを与えられた出川が、自分の持つ英語力のみで目的地までたどり着く(おそらくガチな)構成。日本人が懸命に発音する英語に対し、現地の人がどのように反応するががとても興味深い。

以前与えられたお題、自由の女神まで行け、に対し、出川は自由の女神のことをビッグドールとしか表現できず、それをひたすら現地の人にぶつけた。big doll big doll なのだけど、現地の人は、big door?と反芻する。つまりLとRの発音が出川(というか日本人)は使い分けられないのだ。日本人の耳には確かにbig dollとしか聞こえないのに、現地ではbig doorと判断されてしまう。改めて発音は大変重要だなあと感嘆する。
そして先日、同じ番組の出川のコーナーで、彼は幸運のイノシシを探すのだが、それを意味するlucky boarを繰り返し現地の人に聞いてると、ある人が、ROCKY BALBOA?と聞き返してるのを見て大笑いした。ここでもLとRの発音の違いから、大きく意味がそれているのだ。

日本人って、巻き舌を多用すれば現地っぽい、みたいな大きな幻想、というか過ちがある。
Ret's go!と叫んでも、英語圏の人はついては来ないだろう。

2016年を少し振り返る

2016年を振り返る、なんて、すでに一か月以上たっていて鬼も笑うわけだが、
(そーいえば、上方落語の名作「地獄八景亡者戯」で、怖い顔をした鬼に対抗する手段として、来年の話をしたらこいつも笑いよるでぇ、というのがあったな)
思うに、2016年一番ハッピーだった男は星野源ではないだろうか。
ドラマの主役を張ってそれが大きな話題となり、主題歌を歌ってさらにヒットを重ね、なんとガッキーと疑似恋愛(本物に発展?)←これが大事、を体験した。
元々ミュージシャンで細野晴臣とも親交があり、役者では大人計画に参加。若いのにクモ膜下出血を患い闘病生活も経験し、現在はピコ太郎と同じエイベックスに所属。実は大変な方なのではあるが・・・。

この星野源がドラマの主役を務めた背景には、これも思うにテレビ局の懐事情があり、時代と星野源が合致した感が強い。
自分もテレビに出てみて分かったが、今テレビ業界はホントウに金がない。そしてキー局社員の給料が未だ高すぎて、さらにそれを下受ける外部のプロダクション・制作会社にしわ寄せが来る。正直のところ、自分にテレビ主演の機会が回ってきたのも、ギャラの高いタレントを使えないという事情があったと思う。

バブル期のドラマなら、たとえ主題歌を歌ったとしても、ドラマ内の役柄では三番手ぐらいの脇役ではないだろうか。当時ドラマにも時々出ていた大江千里あたりを思い起こすと分かりやすい。
加藤浩次や設楽統といった中堅の芸人が帯番組で使われるのも、人気とギャラのバランスがいい、グルメでいうところのCPがいいからだそうだ。

コストを抑えるために知恵を出す。どんな世界でも至極当然だ。テレビ業界がもっとも遅れていたが、やっと追いついてきたのかもしれない。