LとR

自分たちが日本人に生まれたことは抗いのようのない事実で、日本人である以上、日本人であることを強く主張し続けることが正しいと信じている。
なので、自分が英語を話す際、ネイティブっぼく話したいとはまったく思わない。
というより、ネイティブとは何なのか。単にアメリカ映画で使われている英語ということに尽きるだろう。
米語を話す人種とそれ以外とでは、世界的にみたらおよそ半々だとも言われている。
あえてアメリカ人でもないのに米語(日本人が思うネイティブ)を話す必要はなく、あくまで日本人として日本語訛りの英語を、きちんと相手に誤解されないように発音して伝えることが肝要なのだ。
というか、アメリカが世界に与える影響力はどんどん低下していくのが自明の理だが、英語が世界の共通語であることはもはや不変だろう。であるなら、シンガポールのシングリッシュのようにジャングリッシュで何が悪いのか。
そもそも、もともとはイギリスを経由して英単語は日本に入ってきた。だからトメイトと言わずにトマトと日本人はいうのである。

日本のテレビで常に最高視聴率をキープしている人気番組「世界の果てまでいってQ」で、出川哲朗が海外の都市にておつかいをする「はじめてのおつかいin海外」というコーナーがある。あるテーマを与えられた出川が、自分の持つ英語力のみで目的地までたどり着く(おそらくガチな)構成。日本人が懸命に発音する英語に対し、現地の人がどのように反応するががとても興味深い。

以前与えられたお題、自由の女神まで行け、に対し、出川は自由の女神のことをビッグドールとしか表現できず、それをひたすら現地の人にぶつけた。big doll big doll なのだけど、現地の人は、big door?と反芻する。つまりLとRの発音が出川(というか日本人)は使い分けられないのだ。日本人の耳には確かにbig dollとしか聞こえないのに、現地ではbig doorと判断されてしまう。改めて発音は大変重要だなあと感嘆する。
そして先日、同じ番組の出川のコーナーで、彼は幸運のイノシシを探すのだが、それを意味するlucky boarを繰り返し現地の人に聞いてると、ある人が、ROCKY BALBOA?と聞き返してるのを見て大笑いした。ここでもLとRの発音の違いから、大きく意味がそれているのだ。

日本人って、巻き舌を多用すれば現地っぽい、みたいな大きな幻想、というか過ちがある。
Ret's go!と叫んでも、英語圏の人はついては来ないだろう。

2016年を少し振り返る

2016年を振り返る、なんて、すでに一か月以上たっていて鬼も笑うわけだが、
(そーいえば、上方落語の名作「地獄八景亡者戯」で、怖い顔をした鬼に対抗する手段として、来年の話をしたらこいつも笑いよるでぇ、というのがあったな)
思うに、2016年一番ハッピーだった男は星野源ではないだろうか。
ドラマの主役を張ってそれが大きな話題となり、主題歌を歌ってさらにヒットを重ね、なんとガッキーと疑似恋愛(本物に発展?)←これが大事、を体験した。
元々ミュージシャンで細野晴臣とも親交があり、役者では大人計画に参加。若いのにクモ膜下出血を患い闘病生活も経験し、現在はピコ太郎と同じエイベックスに所属。実は大変な方なのではあるが・・・。

この星野源がドラマの主役を務めた背景には、これも思うにテレビ局の懐事情があり、時代と星野源が合致した感が強い。
自分もテレビに出てみて分かったが、今テレビ業界はホントウに金がない。そしてキー局社員の給料が未だ高すぎて、さらにそれを下受ける外部のプロダクション・制作会社にしわ寄せが来る。正直のところ、自分にテレビ主演の機会が回ってきたのも、ギャラの高いタレントを使えないという事情があったと思う。

バブル期のドラマなら、たとえ主題歌を歌ったとしても、ドラマ内の役柄では三番手ぐらいの脇役ではないだろうか。当時ドラマにも時々出ていた大江千里あたりを思い起こすと分かりやすい。
加藤浩次や設楽統といった中堅の芸人が帯番組で使われるのも、人気とギャラのバランスがいい、グルメでいうところのCPがいいからだそうだ。

コストを抑えるために知恵を出す。どんな世界でも至極当然だ。テレビ業界がもっとも遅れていたが、やっと追いついてきたのかもしれない。

人生50歳から

ぼくは、50歳で初めて本を出版し、その後も定期的に上梓することができた。
そして50台半ばでテレビに主演して、1年間全国各地の食堂を60軒取材した。
すべて先方からのオファーで、自分が仕掛けたわけでもない。

何かコツコツと続けていたら、どこかで花開くことがある。
それが信じられる、実際に存在する、他人にも伝えられる体験を重ねた。

まさに人生50歳から、である。

そして、来るべきチャンスに備え、もちろんさらなる経験を積み情報を整理して、
頭を冴えさせておくことも大切だが、
これからは健康維持が第一。
いざというときの体力が勝負かなと、切実に思う。

森のくまさん

森のくまさんの歌詞を改ざんしてCD化したお笑い芸人が話題になっている。
著作権の是非や内容は、それはどうでもいいが、無名の芸人を一躍世に知らしめたということでは、マスコミの業績は大きい。。
でも、「森のくまさん」、子供のころから変な歌詞だなあと思っていた。
そこに歌詞を付け加えたいとか、あのテンポのいいリズムの楽曲をもっと輝かせたいとか、思う人がいても当然だろう。

あるひ もりのなか、くまさんに出会った
花咲くもりのみち、くまさんに出会った

短い曲の中、歌詞による情報に沿って歌の情景を想像することはとても重要だと思うのだが、この導入の2フレーズ、
ほとんど意味は同じである。しかも森、出会いと、同じ言葉が繰り返される。
この訳詞で、ダメ出しはなかったのだろうか。訳詞家が声高に著作権を訴えるが、出来上がった時点で、曲にまつわるだれかが、もう少し考えようよと言わなかったのか・・・。不思議である。

例えば、
ある日 森の中 くまさんに 出会った
花咲く朝の道 それは突然だった

これがいいのかどうかは別として、このように歌い出せば、その後くまさんが、早くお逃げなさいと言った意味にも多少はつながるというものだ。

こちこちかっちん おとけいさん
「おとけいさん」って何だろう。日本語の言葉が当てはまらないからといって、時計に「お」と「さん」を付けるという荒唐無稽さ。

線路は続くよどこまでも、という旅のうた。歌詞自体は、とても元気が出て意気揚々とリズムにも乗れるスバラシイ訳詞である。後半はラララと手抜きをしているが(笑。
ところで最近流れるパナソニックのコマーシャルのバックで、この歌の元歌、英語で歌われる「線路は続くよ」が使われているのをご存じだろうか。介護など、パナソニックのヘルスケア部門の企業広告で、この歌の元気で前向きなメロディが採用のポイントとなったかと思う。

ただね。
さすがまるドメ(まるでドメスティック)と揶揄されるパナソニックだけあって、日本人はすべて、英語の歌詞が理解しないだろうと信じているに違いない。

そのリアルな歌詞は、
ぼくは一日中ずーっと線路の上で働いている・・・と始まる、まさに、身につまされるブルーカラーの労働歌。
介護の世界とは対極に位置する。

サザンオールスターズという存在

ご縁があって、サザンオールスターズの東京ドームコンサートに行ってきた。
コンサート自体、思いっきり楽しめたけど、それ以上に、コンサートの予習として聴き込んだ、ツアーにも銘打たれている「葡萄」というニューアルバムが大変すばらしいものだった。

それは、桑田佳祐という人が放つ同時代性である。
誤解を恐れず言えば、「葡萄」というアルバムで歌われる内容は、
ほぼ「酔っ払う」「抱き合う」「平和を願う」の三点。
この三点が「2014年の50代後半のオトコ目線」という、限りなく狭い意識と視点で描かれているのだ。自分は桑田佳祐より少し若いが、それでもまさに、その狭い領域にストンと入る。それはもう、共感しまくりである。

ただ、それにもかかわらず会場は大半が女性。そして年齢もバラバラ。サザンファン歴20年ですぅといった、アラフォ―がコアのようにも見える。

ピンク映画 歌舞伎町とハシゴして とか、
この時代こそ「未来」と呼ぶのだろう 

みたいな表現が響く世代ではないと思う。
でもコンサートでは、彼女たちも情熱的に絶え間なくエールを送り続けている。
女性は50代後半のオトコと違い、音楽を点ではなく面や立体でとらえることができるのだろう。

話は変わるが、ぼくが生涯で初めて購入したCDは(LPではなく)、サザンオールスターズの「kamakura」である。1985年のことだ。
海を想起させる湘南バンドと位置付けられていた彼らが、当時のミュージックシーンを席巻していた電子楽器を駆使したファンクサウンドに挑戦した、という触れ込みで、自分が初めて鳴らすCDに選ぶにふさわしいと思ったからだ。

「葡萄」を何度も聴いているうち、そんなことを突然思い出し、拙宅に残っていないか探すももはや見つからない。Amazonで調べると2008年にリマスター盤が出ていることが分かり、瞬間「kamakura」を購入していた。
レコードに針を落とした瞬間のボッという音、そしてイントロが始まるまでにジリジリと鳴るノイズがなく突然始まるドラムに30年前嬉々としたことを思い出しながら。
そして、レッドツェッペリンやディープパープルのアルバムを改めてCDで買いなおしたときのような、そんな感覚で楽しんでいる。

愛情の程度まで デジタルのカウントで計られる
単調な画面には 呼びかけた表示が舞い踊る

そう、彼は1985年も、まさにその同時代を唄っていたのだった。

ポール・マッカートニーとかミック・ジャガーとか。桑田佳祐よりもはるかに年上の海外のアーチストが、今でも日本にやってきて、日本の市場で巨額の富を得ている。彼らのパワーには頭が下がるが、言うなれば「昔の名前で出ています」状態であり、イマを同時代の言葉で歌うというわけではない。

そんな意味で、世に登場して40年弱。デビューから昨年の「葡萄」まで、桑田佳祐は、サザンオールスターズは、常に時代と向き合い同時代を歌ってきた、世界にも類を見ないミュージシャンということになる。ある意味、日本の誇りであり日本の宝なのかもしれない。そして、10年後、20年後にまで期待を寄せることができる、唯一のアーチストでもある。